ローマの信徒への手紙を読む(第121回)

121 神の意志(2)

 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、
あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」
と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、
かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
(ローマの信徒への手紙9章17〜18節)

 人間の思いをこえた神の義、人の意志や努力によらない神の自由な恵みをわたしたち人間が知ろうとするなら、人間的な思考から離れなければならない。つまり、神のみ言葉に聞くほかはない。聖書をとおして神のみ言葉を聞き、あるいは聖書にしるされている、神が実際に地上の歴史の中でふるいたもうた救いのみわざを見るほかはない。
 パウロもここでそのようにする。つまり、神が旧約の歴史においてイスラエルの民に対してふるいたもうた大いなる救いのみわざを思い起こす。
  それは出エジプトのおりのこと、具体的には出エジプト記5章に記されていることである。その当時イスラエルの民はエジプトの地で奴隷状態にあり、過酷な労働によって死の苦しみを味わっていた。神はモーセをとおしてエジプト王ファラオに、イスラエルを去らせるようお命じになったが、ファラオはこれをかたくなに拒んだ。イスラエルはエジプトにとって貴重な労働力だったからである。
  そこで神はエジプトに十のわざわいをくだしたもうた。最後のわざわいは、ファラオ自身の子も含めてエジプト中の初子を打つというものだった。そのような経過を経て、ついに神はイスラエルをエジプトの国、奴隷の家から解きはなちたもうたのである。

そのことを思い起こしつつ、パウロは17〜18節で驚くべきことを語る。神はファラオのかたくなさをもご自身の栄光をあらわし、ご自身の救いの力と大いなるみ名を全世界に示すためにお用いになったというのである。
ファラオが神の言葉に背いてイスラエルを去らせなかったことは、もちろん彼の罪であった。しかしもしも彼がこのようなかたくなさを示さなかったなら、出エジプトの出来事はあっただろうかとパウロは問うのである。

この出エジプトのおりの過ぎ越しのみわざは、神がエジプトの初子を打たれたさいに、イスラエルの家の入口の柱に小羊の血を塗らせることでイスラエルの家とエジプトの家とを区別し、小羊の血に免じてイスラエルを打つことをなさらなかったというものであった。

したがって過ぎ越しのみわざは、イエス・キリストの十字架の血による罪の贖いと赦しの恵みを、旧約の時代にあって先取りするものであったのである。神の選びの民がエジプトの地に捕らわれていたとは、罪と死の奴隷であったということを象徴するものであったはずである。そこから救い出されたとは、罪と死の支配からの自由が神の恵みによってもたらされたという祝福を意味するものであったのである。
   そのような大いなる救いの出来事をなしたもうために、神はファラオをかたくなにし、彼の背きの罪をもお用いになったのである。

今パウロはひとつの問いに向き合っている。神の選びの民イスラエルが神に背いたということは、その神の選びがまちがっていたのではないかとの問いである。そしてあろうことか、神の子イエス・キリストが都エルサレムで、神の民らの手によって十字架につけられ、命を奪われたという事実は、神の義ということを決定的に疑わせるものではないか、むしろ神は不義なる方ということにならないかとの問いである。
    しかし、この重大な問いに対しても、このように答えることはできないであろうか−神はご自身の大いなる救いの力と、み名の栄光とを全世界に示すために、あえてご自身の選びの民をかたくなにされた。 
    主イエスを十字架につけたことは、もちろんイスラエルの罪であった。人類の罪はここにきわまったと言い得るほどに重い罪であった。
    しかし同時にあの十字架の上で、罪におちた人類に対する神の憐れみもまたきわまったのである。もしもユダヤ人たちが神の子キリストを十字架につけなかったとしたら、人類を罪と死の支配からときはなつ神の救いのみこころも、世に示されることはなかったのである。このように、神はご自身の憐れみをあらわしたもうために、あえてイスラエルをかたくなにされたのである。

(2009.5.6 祈祷会)