ローマの信徒への手紙を読む(第122回)

122 神の意志(3)

 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、
あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と
書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、
かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
(ローマの信徒への手紙9章17〜18節)

 神はご自身の大いなる救いの力と、み名の栄光とを全世界に示すために、あえてご自身の選びの民をかたくなにされた。主イエスを十字架につけたことは、もちろんイスラエルの罪であった。人類の罪はここにきわまったと言い得るほどに重い罪であった。
    しかし同時にあの十字架の上で、罪におちた人類に対する神の憐れみもまたきわまった。もしもユダヤ人たちが神の子キリストを十字架につけなかったとしたら、人類を罪と死の支配からときはなつ神の救いのみこころも、世に示されることはなかった。このように、神はご自身の憐れみをあらわしたもうために、あえてイスラエルをかたくなにされた。以上の点をパウロは確かめたのだが、このことをパウロは決して一般論として語ることはできなかったはずである。自分自身のこととのかかわりでしか語ることができなかったはずである。

すなわち、彼もまたかつてキリストの敵、教会の迫害者であった。パウロ自身がファラオのように、また十字架を取り囲んだ人々のように、かたくなな人間であったのである。
  わたしたちはすでに、わたしは何とみじめな人間であろうか、だれがこの死の体からわたしを救い出してくれるのだろうか(7:24)との、彼の悲痛な叫びを聞いたのである。別の手紙では、彼は自分を罪人の中の最たる者と呼んでいるのである(一テモテ1:15)。
  その罪人のかしらが自分自身の意志によらず、努力にもよらず、ただ神の憐れみによって救いを得たとパウロは言うのである。彼は、わたしが今あるのはただ神の恵みによるとも語って、神の救いの恵みをほめたたえているのである。
  さらに、このことは決してパウロひとりの問題にはとどまらない。ユダヤ人のみの問題にもとどまらない。確かに主イエスの十字架に直接手をくだしたのはユダヤ人たちである。しかし「イエスを十字架にかけよと要求した人/許可した人/執行した人/それらの人の中に/わたしがいる」(水野源三)−聖書の真理を深く知らされるほどに、わたしたちがさとらされるのはこのことである。
  わたしたち自身も、かつて自分がどれほどかたくなな人間であったのかを思ってみずにはおれない。否イエス・キリストを信じた今も、そのかたくなさから自由にはされていないことをしばしば痛感させられるのである。それはおのが罪の深さを知るゆえに、その罪の淵から救い出してくださった神の恵みをほめたたえずにはおれないということである。

わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ−このようななさりかたは神の不義、不公平の証拠ではないか。人間の論理からすれば、そういうことになるのかもしれない。
  しかし、そもそも神の義とは何か。それは神が正しい者には命を与え、罪人には滅びをもって報いるということではなかっただろうか。聖書は、すべての人間はアダムにあって生まれながらに罪人であると語る。だとすれば、全人類をひとり残らずその罪に見合って正当にさばき、滅びにいたらせることによって神の義は貫徹されることになったはずである。
  にもかかわらず、神は罪人が滅びることをお望みにならず、独り子を世に遣わしたもうたのである。そして、独り子の十字架の贖いによって罪人を義とし、その命を死から救い出してくださったのである。罪ある者を罪あるままで義とするということは神にはおできにならない。そのようなことをすれば、神ご自身が不義なるお方だということになってしまうからである。
  そこで、神は罪なき独り子を罪人らの身代りに死なせたもうたのである。わたしたちのかわりに独り子に罪の代価を支払わせることで、ご自身の義を満足させ、貫きとおし、わたしたちを罪あるままで義とし、罪と死の縄目から永遠にときはなってくださったのである。人知をはるかにこえる驚くべき神の義が、神の愛に裏打ちされつつ、このようにして全世界に示されたのである          (2009.5.13 祈祷会)