ローマの信徒への手紙を読む(第123回)

123 憐れみ(1)

 ところで、あなたは言うでしょう。
「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。
だれが神の御心に逆ら 
うことができようか」と。
(ローマの信徒への手紙9章19節)

 9章18節に「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」と語られていた。これは神がご自分の選びの民をエジプトの奴隷状態から救い出すために、あえてエジプト王ファラオをかたくなにされたということの関連で言われていたことであった。
 つまり神はよきみわざをなしたもうために、あえて人をかたくなになさることもあり得るということが言われていたのである。わたしたちはそこに、神のくすしいみこころを見たのである。しかし、もしも18節のみ言葉だけを(神が実際になさった救いのみわざということから切り離して)聞くなら、やはりわたしたちは反論したくなるのではないだろうか。
  パウロは19節で、その反論をあらかじめ予測している。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」

 つまりこういうことである。神はご自身のみこころのままに、あらゆることをなさる。人がご自身に対して従順になるのも、反対に心を閉ざすことも、神の自由なみこころによる。神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなになさる。神はその自由なるみこころによってエサウをしりぞけ、ヤコブを選びたもう。そしてこのことは聖定、すなわち永遠の計画において定められていたことである。
  そうだとすれば、その神の計画の中に人間の介入する余地はないということになる。そうであるならば、そこで人間の意志はどうなるのか。人間は神のあやつり人形にすぎないということになりはしないか。もしそうなら、神はどうして人間の罪の責任を問うことができるのか。ファラオは神の前にかたくなだった。が、神が(しかも永遠の計画によって)ファラオをかたくなにされたのだとすれば、そのことでファラオを責めることができるのか。自分がかたくなにされたことについて、それについて自分の出る幕はなかった、手も足も出すことができなかったとするなら、ファラオの罪責を云々するのは酷ではないか。
 この反論は一見もっとものように思われる。そして、たとえば予定の教理に対しても、このような問いが投げかけられてきた。神はある者を永遠から救いへと選んでおられたが、ある者についてはそうでなかった。このように聞くと、それでは人間の自由意志はどうなるのかとの疑問が呈せられた。 
  そして予定の教理に反対して、神の選びということは否定しないものの、それは神がその人が救いの恵みに応答することができる人かどうかをあらかじめ見越したうえでのことであったとする考え方も生まれたのである。このような考え方、すなわち神はすでにイエス・キリストを十字架につけ、救いのためのみわざを準備万端ととのえられたのだから、あとはその人がこれに応答するかどうかにかかっているとの考え方が、今も教会の中に一定の勢力をもっているのである。

 わたしたちは、キリスト教信仰の中にも人間の論理が入り込んでしまうことを覚えたい。聖書は神の義を語り、神の論理をさし示す。そしてときに、神の論理と人間の論理、神の義と人間の義とは矛盾し、くいちがう。しかし神は仰せになる。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」(イザヤ55:8)のである。
 聖書が語るのは神の義である。そして神の義をさとる道は、ただひたすらに聖書に聞き続ける道である。み言葉に忠実に聞き続けるなら、神は必ず人間の義をはるかにこえて大いなるご自身の義をわたしたちにもさとらせてくださるはずである。そのように神の義に習熟していくことこそ、人間が聖化されていく道にほかならないのである。
 そして神の義に人間の義が入り込み、聖書の論理に人間の論理がとってかわるとき、救いの真理が見えなくなるのだということをも覚えておきたい。パウロは8章までのところで信仰による義という真理を語った。9〜11章のイスラエルについての論述も、この信仰義認の真理に裏打ちされている。神の真理はいついかなるときにもぶれることがないのである。

(2009.5.20 祈祷会)