ローマの信徒への手紙を読む(第124回)

124 憐れみ(2)

 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、
「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、
一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
(ローマの信徒への手紙9章20〜21節)

 神が自由に人を憐れみ、またかたくなにされるというなら、人間の意志の自由はどうなるのか。人間は神のあやつり人形にすぎないのか。あるいは、そのように人間の出る幕がないとしたら、人にそのかたくなの罪の責任を問うことは正しくはないのではないか。
 この問いはいかにももっともらしい問いである。けれども、この問いはあくまでも人間の論理の枠の中にとどまっていると言わねばならない。
 この問いの背後には、神がすべての人に憐れみをほどこし、すべての人を救いに選ぶのが当然であり、もしも神がそのようになさらないなら、それは神の不合理であるとの考えがあるのである。そのような考えに立つためか、キリスト教の教派の中にはいわゆる万人救済を説く教派もある。しかしこれは聖書に即した考えとは言えないのである。
 なぜなら聖書は始祖アダムにあって全人類が罪を犯したと語っているからである。神は人を自由なる存在として創造された。もしも彼がこの自由を神に従うほうに用いていたなら、永遠の命、最高の命を得るはずであった。しかし彼は自由意志をもってみ言葉に背いた。アダムのこの罪(神が罪の作者であるというのではなく、人の罪はあくまでも人自身の責任である)により、この世に死が入った。アダムは全人類の代表者であったので、彼の子孫である人類は生まれながらにこのアダムの罪を受け継いでいる。すなわち原罪を背負っている。アダムのすべてのすえは、それゆえ「塵に返る」(創世記3:19)べきさだめのもとにある。

 そのように罪が人間自身の責任であるとすれば、罪人にふさわしい報いがすべてのアダムのすえに求められてしかるべきなのである。すなわち(わたしたちのひとりひとりも含めて)全人類が罪の報酬を支払って死にいたる、そこに神の義があらわされ、神のまったき義にもとづく正当なさばきがなされるというのが本当であったのである。先の問いは、人が神のかたちに似せて、創造の冠として造られたにもかかわらず、みずからの意志によって神に背き、罪におちたとの事実を忘れ果ててしまっているのである。
 このことはまさに予定の教理においてこそ妥当する。予定の教理がある者を選びに、ある者を遺棄にと語るとき、それは神の不公平ではないかと問われる。しかし、本当はすべての者が塵に返るべきであったはずである。にもかかわらず神はある者たちをイエス・キリストの十字架の血潮によって贖い、救いに入れたもうた。これは神の(まさに不合理な)憐れみと言うほかはないのである。

  この問題をさらに発展させるとすれば、世界で戦争やテロといった大きな、悲惨な出来事が起こるたびに、キリスト者ではない人々の間からも、神の正しさ、公平さを問う声が上げられることがある。もしもこの世に本当に神が存在するなら、なぜこのようなことを神は見過ごしたままであるのかとの声である。そのように問わずにはおれない思いはわかるのである。

  しかしここでも神の不合理を問う以前に、殺してはならないとの神のみ言葉に背き、また地を支配せよとの神の命令に逆らって地を汚す人間の罪と悲惨をこそまず見つめるべきではないだろうか。そのような世のありかたをご覧になって、今も神ご自身が深い悲しみと嘆きを覚えておられること、ひとり子をたもうほどに世を愛しておられる神こそがそういう現実の中で、だれよりも深くみ心を痛め、苦しんでおられるのだということを覚えるべきではないだろうか。
 そして、地上に悪が満ちるのをご覧になった神が一度は地を滅ぼされたこと−あのノアの時代に洪水によって地を滅ぼし尽くされたこと、それにもかかわらず箱舟によって被造物を救い、契約の虹をかけてこの世界と歴史が続くことをおゆるしになり、今も世界と人類の悪をおしとどめておられる、その神の忍耐をこそ思ってみるべきではないだろうか。さらにこの罪の世をイエス・キリストの血潮をもって贖い、終わりの日には新しい天と新しい地を来たらせたもうとの神の驚くべき約束を思ってみるべきではないだろうか。 

                           (2009.5.27 祈祷会)