ローマの信徒への手紙を読む(第125回)

125 憐れみ(3)

 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、
「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、
一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
(ローマの信徒への手紙9章20〜21節)

 神が自由に人を憐れみ、またかたくなにされるというなら、人間の意志の自由はどうなるのか。人間は神のあやつり人形にすぎないのか。あるいは、そのように人間の出る幕がないとしたら、人にそのかたくなの罪の責任を問うことは正しくはないのではないか。この問いに、パウロは20〜21節で、陶器師と陶器のたとえをもってこたえる。陶器師は造り主なる神、陶器は被造物たる人間である。
    陶器は陶器師に、自分をこのように造ってほしいと注文することもできないし、また造られた後に、なぜこのように造ったのかと不平を言うこともできない。陶器師の手の中で、陶器はただ思いのままにこねられ、形づくられ、焼かれ、仕上げられるのみである。それがまさに造り主と被造物の関係である。
 けれどもいつしか、陶器は自分が陶器にすぎないことを忘れ、陶器師を思いのままに支配し得るかのように錯覚してしまった。偶像の神々であれば(それは人間の造ったものにすぎないので)人間の思いどおりになるかもしれない。しかしまことの神の前では、人は被造物としての分をわきまえ、へりくだらねばならないのである。

  わたしたちはここで義人ヨブを思い起こす。ヨブこそ、心の底から神の義を問うた人である。彼は神の前に誠実に生きていたにもかかわらず、神は彼を激しく苦しめたもうた。自分のように信仰をもって、神を愛して生きている者をこのような不可解な苦しみにあわせる神はほんとうに正しいお方なのかと彼は命がけで問い続けたのである。
 そのヨブが、最後には悔い改めに導かれ、神との和解にいたる。それはなぜであったのか。神が長い沈黙を破ってみずから彼に語りかけたもうたからである。ご自分が陶器師であり、彼は陶器にすぎないということをみ言葉をもってときあかしたもうたからである。そしてご自身が大きな苦難のただ中にあっても彼を見捨てたまわず、彼の造り主であることをおやめにならず、彼の命を支え、彼に憐れみを注ぎ続けられたことをお示しになったからである。あなたは天と地とをその手で造ったのか、空と星を、海を造ったのか、地の獣を生み出し、養っているのか、天と地のさかいをもうけたのはあなたなのか、それはわたしではないか−そのように仰せになる全能者の前に、ヨブは口をつぐみ、ただひれ伏すほかなかったのである。
 神が自由に人を憐れみ、またかたくなにされるというなら、人間の意志の自由はどうなるのか。人間は神のあやつり人形にすぎないのか−そのように問う以前に、わたしたちは考えてみなければならない。では、わたしたちは自分の救いに貢献することができたのか。神の救いのみわざに指一本でも協力することができたのか。イエス・キリストがわたしたちのために死んでよみがえりたもうた、そのみわざにほんのわずかでもかかわったのか。そうではなかったはずである。

 人を罪から救う力を持っておられるのは神のみである。わたしたちに向かって、あなたの罪は赦されたと宣言することのできるお方は神のみである。十字架の重みをほんとうに背負い切ることのできるお方はイエス・キリストおひとりである。そしてわたしたちはこの十字架の恵みによって罪赦され、救いを受けたのである。
 天地の造り主、全能の父なる神は、わたしたちのひとりひとりをも造られた。神は人をご自身のあやつり人形のような者としてではなく、自由なる存在として(自由そのものであられるご自身に似せて)お造りになり、ご自身との愛と自由の交わりの祝福に生きるようにされた。しかし、人は始祖アダムにあってこの自由を神に背くために用いた。それゆえ罪の責任は神にではなく、人にある。本来であれば、人はその罪の報酬として死を刈り取るべきであったし、義なる神は人を滅ぼすことにより、ご自身の義を貫くこともおできになったはずである(それこそがまったく正当な手続きであったはずである)。

にもかかわらず神は罪人に赦しと命を与えるため、罪なきひとり子を犠牲として差し出されることによって、ご自身の義と罪人に対する愛とをともに貫きとおされたのである。真にそのことを知るなら、わたしたちはただひたすらに神のみ前にひれ伏し、自分の無知と無力をさとり、神に栄光を帰しまつるほかないのである。子どものように神の憐れみにすがりまつるほかないのである。          
                            (2009.6.3 祈祷会)