ローマの信徒への手紙を読む(第127回)

127 憐れみ(5)

 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。
「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。
主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、
わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」
(ローマの信徒への手紙9章27〜29節)

 イスラエルに対する神の憐れみということについては、パウロはイザヤ書から証ししようとする。27〜29節である。27節はイザヤ書10章22節の引用である(先のホセア書2章1節(a)とも重なる)。29節はイザヤ書1章9節の引用である。
 神に選ばれたにもかかわらず神に背いたイスラエルに対して、すでに旧約の歴史において、神の義はあきらかに示された。すなわちイスラエルは神の手で滅ぼされるにいたったのである。ソロモン王以後南北に分裂した北の王国はのちにアッシリアによって、南の王国はバビロンによってともに滅ぼされ、民は捕虜となってそれぞれの国に引いて行かれた。
 これはたんにイスラエルが敵国に滅ぼされたという政治的、歴史的事件にとどまるものではない。聖書は、これは敵国の王の手を道具として用いて、神がご自分の民をみずから打ちたもうた、その背きの罪を正義のみ手をもって正当に審判したもうた、そういう出来事であったと語るのである。
 にもかかわらず、そのような恐るべき義の審判のただ中にあって、なお神の憐れみは示された。すなわち残りの者と呼ばれる者たちの存在である。
 イスラエルの多くの者たちはその罪ゆえに敵の剣にかかり、捕囚として引いていかれた。しかしこの滅びの悲惨の中にも、み言葉に忠実に生きるごくわずかの人々があったのである。海辺の砂のように数多くの民にあって、彼らはごくひとにぎりにすぎなかったが、神はこの人々をみこころにとめ、捕囚の苦難の中を生き延びさせて、新しいイスラエルの歴史の子孫となさったのである。

 それはまさしく神の憐れみであった。預言者イザヤは言った。
「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」(29)

 ソドムもゴモラも、そのはなはだしい罪のために、神のみ手によって滅ぼされた町である。つまり神の憐れみが注がれなければ、イスラエルもまたそれらの町々のように徹底的に滅ぼし尽くされて、その歴史の歩みは絶えてしまったはずである。が、そうではなかった。
神は残りの者を残された。それは神の正義の審判にあってなお、愛するイスラエルに対する救いの歴史が破壊されてはいない、神がなおイスラエルを見捨ててはおられない、そのことの証明であったのである。

 残りの者たちは何の功績にもよらず、ただ神の憐れみによって残された人々である。この人々があったからこそイスラエルの、旧約聖書の歴史はつながったのである。捕囚の審判の期間が過ぎると、ペルシャ王キュロスのもとで囚われの民たちは祖国への帰還をゆるされ、都エルサレムと神殿は再建され、新しいイスラエルの歴史の歩みが始められる。そして古い契約の歴史は新しい契約の歴史へと受け継がれていく。この新しい契約のもとで、選びの民のみならず異邦人たちも救いに入れられていく。そういう中で、残りの者と呼ばれた人々はまさに救いの歴史の架け橋となったのである。

 時満ちてイエス・キリストが世に来たりたもうたこと、ユダヤ人と異邦人の双方から憐れみの器が召し出され、キリストの教会がたてられたこと−そのすべてが神のくすしい計画であり、神の憐れみによることである。神のなさることは時にかなって美しいことに、わたしたちはただ驚くほかはないのである。わたしたちのひとりひとりも、この神の救いの計画に組み込まれている。そのことを知るとき、わたしたちはただ神をほめたたえるほかはないのである。

 預言者ホセアが語ったように、神は人を愛し、選び、憐れみたもうお方である。この神のみ手にあるとき、怒りの器は憐れみの器に変えられ、恵みの外にあった者が恵みのただ中に引き入れられ、愛されるべきでなかった者が愛され、死ぬはずの者が命を得るのである。これはまさに人知をこえたこと、神の事柄なのである。           (2009.6.24 祈祷会)