ローマの信徒への手紙を読む(第128回)

128 つまずきの石(1)

 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、
行いによって達せられるかのように、考えたからです。
彼らはつまずきの石につまずいたのです。
(ローマの信徒への手紙9章32節)

 9章33節にこのように言われる。
「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く」

 おそらく旧約聖書イザヤ書28章16節と8章14節とが念頭に置かれている。パウロがここでイザヤ書を引用している意図はあきらかである。この「つまずきの石、妨げの岩」とはイエス・キリストをさすと言ってよいのである。
 「シオン」とはイスラエル王国の都エルサレムのことである。ソロモン王の時代に、このエルサレムに地上における神の住まい−神殿も建てられた。しかし、主なる神はこの神の都エルサレムにつまずきの石、妨げの岩を置くと言われる。これはどういう意味であろうか。すなわち神の選びの民が神の独り子、救い主イエス・キリストにつまずくということにほかならない。
 そのことを、すでに旧約の預言者イザヤが告げていたわけである。そしてイザヤの預言はイエス・キリストが、この都エルサレムでユダヤ人たちによって十字架につけられたことで文字通り成就した−そのことを示すのが、ここでのパウロの意図なのである。
 そのように、選びの民が神につまずいている。一方では異邦人たちが福音を信じ、受け入れている。パウロ自身も異邦人伝道の使徒として召され、働いているのである。現にそのような驚くべきことが、事実として目の前で起こっている。
 これは確かに、神の救いの歴史全体における実に大きな問題である。このようなことが起こるのは不可解である。このこともまた神の人知をこえた、くすしい計画のなかで起こっているとはわかっていても、実に不可解なことである。

 なぜこのようなことが起こったのか。パウロはここで、この問いに(ある面で)実に明確にこたえている。そしてここでパウロが論じていることは(後にも触れるが)新約のイスラエルであるわたしたちにも深い反省をうながすのである。
 パウロは30〜32節で言う。「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです」
 イスラエルと異邦人とはどこがことなっていたのだろうか。何が救いとつまずきとを分ける分岐点となっていたのだろうか。
 パウロは言う。イスラエルも救いを求めた。決して救いを求めることにおいて怠惰であったわけではなかった。むしろ彼らはそのことに熱心であった。すなわち律法を守り行うためにたゆみない努力をかさねた。
 にもかかわらず、彼らはその律法に達しなかったとパウロは言う。なぜか。パウロによれば、それは彼らがそれを信仰によってではなく、
行いによって達せられるかのように考えたためである。

 つまり異邦人が救いを受け、イスラエルがつまずきに陥った、その理由は両者の義の求めかたの相違にあったのである。それは文字通り正反対であったのである。異邦人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされた。神の憐れみによって救いを得た。
 それに対してイスラエルは、義とされるとは自分の義を神の前に立て、自分の力で神の義の水準にまでのぼりつめていくことだと考えた。その結果、彼らはその律法に到達しなかった。ここでの「到達しなかった」とは努力不足であったとか、到達のしかたが不十分であったという意味ではない。追求のしかたそのものが最初からまちがっていたという意味である。
 自力で律法を守り抜いていくということが、なぜ義を得るしかたとしてまちがっているのかということについては、7章に語られていたことを思い起こせばよいであろう。アダムにあって生まれながらに罪人である者が神の完全な義に到達しようと企てること自体が自己矛盾であり、袋小路なのである。
                                                            (2009.7.1祈祷会)