ローマの信徒への手紙を読む(第133回)

133 み言葉は近きところに(1)

 モーセは、律法による義について、
「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
しかし、信仰による義については、こう述べられています。
「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」
これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」
これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

  (ローマの信徒への手紙10章5〜8節)

 カトリック作家の遠藤周作氏は、日本人とキリスト教の問題を終生問い続けた。それは遠藤氏が熱心なカトリック信者であった母上に連れられて教会に通い、12歳のときに母上を喜ばせるために洗礼を受けたところから始まる。遠藤氏にとってキリスト教とは、無理やり着せられた寸法の合わない洋服のようなものであった。しかし、これを脱ぎ捨てることはできない。
 それならば、このお仕着せの洋服を自分に合うものに仕立て直したならよいのではないか。その問題意識とそのための努力ということが、この作家の生涯のテーマとなったのである。
 遠藤氏の取り組みは、日本という異教的な土壌にキリスト教を根づかせること、日本の地に福音を宣べ伝えることに関する大切な動機をはらんでいる。ただ、そこでは神の言葉によって人間が新しく造りかえられるという側面は弱いように見受けられる。
 そして遠藤氏の場合、旧約聖書と新約聖書とを対立するものとして見る姿勢が顕著である。旧約が神は怒りと審判の神であるのに対して、新約の神は愛と赦しの神であるとの見方である。そして新約の神こそイエスの神であり、弱い自分はこのイエスの神によって救われるのだとされるのである。

 旧約の神と新約の神とを対立的にとらえることは、遠藤氏だけに見られることではない。古代教会の時代からあったことである。
 たとえば紀元後2世紀のマルキオンという神学者は、旧約聖書は律法であり、新約聖書は福音であるとして、旧約聖書のすべてを捨て、新約聖書についても旧約的な色彩をもつと思われる書を捨て、ルカによる福音書とパウロの10個の手紙だけからなる「マルキオンの聖書」と呼ばれる独自の聖書を編纂した。
 マルキオンのようなしかたで聖書を信じることがふさわしいことではないことはもちろんである。聖書を信じるとは、聖書66巻から自分の気に入る書のみを取り出して信じるということではない。旧新約の聖書全巻を神の言葉として信じるということである。
 プロテスタント教会であれば、どこであっても「聖書のみ」ということは言うであろう。しかし宗教改革者たちは「聖書のみ」ということに加えて「聖書全体」ということをも強く主張した。そのことの意義ははかり知れないのである。

 旧約の神と新約の神が別の神であるということは、もちろんない。神はただおひとりであられる。旧約の神も新約の神も同じ神であられ、旧約の歴史においても新約の歴史においても、神は贖いの神、救いの神、愛と恵みの神であられる。

聖書66巻(の全体)を信じるということは、旧約聖書と新約聖書とを対立的に見ず、連続した救いの歴史として見るということである。そのことがわたしたちの信仰をすこやかな、正しいものとする。救いの歴史とは、すなわち恵みの契約の歴史である。
   最初の人アダムは、神が彼と彼の子孫(たる全人類)との間に結びたもうたわざの契約(あるいは命の契約)に背き、禁じられていた木の実に手を伸ばした。このアダムの不従順の罪ゆえに、全人類は死ぬ者となった。
   しかし憐れみ深き神は、ただちにもうひとつの契約を結んでくださった。この契約は旧約聖書の歴史の中で進展し続けた。そして時満ちて、新約のキリストにおいてついに成就するにいたったのである。
   そして、この旧新約をつらぬく恵みの契約にあって変わることなく示され続けた真理こそ(パウロがこの手紙で一貫して述べている)信仰義認の真理なのである。旧約時代の聖徒たち−アブラハムもモーセもダビデも、みな信仰によって義とされたのである。                  (2009.8.12 祈祷会)