ローマの信徒への手紙を読む(第134回)
134 み言葉は近きところに(2)


モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。
「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」
これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」
これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。

(10:5〜8)

 旧約の神と新約の神が別の神であるということは、もちろんない。神はただおひとりであられる。旧約の神も新約の神も同じ神であられ、旧約の歴史においても新約の歴史においても、神は贖いの神、救いの神、愛と恵みの神であられる。
   そして、旧新約をつらぬく(すでに旧約の時代から結ばれ、そして新約のイエス・キリストにおいて成就した)恵みの契約にあって変わることなく示され続けた真理こそが、(パウロがこの手紙で一貫して述べている)信仰義認の真理なのである。旧約時代の聖徒たち−アブラハムもモーセもダビデも、みな信仰によって義とされたのである。
    旧約の時代はイエス・キリストを待望する時代、あるいはイエス・キリストの到来のための準備の時代であり、新約の時代はイエス・キリストの救いの成就の時代である−そのような違いはあるにせよ、旧約も新約もともにひとりのお方、キリストを指さしている。それゆえ旧約聖書39巻も、すでに到来されたキリストの光のもとで読まれるべきなのである。

イスラエルの中に、なぜ律法主義が生じたのであろうか。イスラエルはなぜ、信仰義認の真理の対極にある自己義認、自力救済の考えにおちいったのであろうか。
   おそらくパウロは、それはイスラエルが旧約もまたひとりのメシア、キリストを証言しているのだということを、すなわち旧約聖書の本質を見抜き得なかったためであると考えている。
  確かに神は旧約の時代に、モーセをとおしてイスラエルの民に二枚の石の板を授けられた。しかし、それはイスラエルに自力によってこれを守らせるということではなかった。ご自身の民を突き放して、ご自身の義の水準にまで自分の足で登ってくるようにということではなかった。また、それができない者たちを厳しくさばき、

滅ぼすために律法が与えられたというのでもなかった
   そうではなく、神は彼らに近くいまし、彼らの手を取って、み言葉に従って生きることができるよう守り導かれたのである。父なる神はご自分の子どもたちを、かたわらにあってねんごろに教え、彼らの後ろ盾となり、その手足を背後から支えて、命の道へと導こうとなさったのである。すなわち律法はもともと恵みの言葉、命の言葉であった。
  しかしこの最も重要な点で、イスラエルはいつしか神を誤解したのである。すなわち今も近くいましたもう愛の神を、すでに自分たちを遠く離れてしまった怒りとさばきの神ととらえ、人はこの神のさばきを免れるために、律法の厳格な遵守によって自分で自分を義としなければならないと考えるにいたったのである。

 それは悲劇的な誤解であった。だからこそ主イエスはファリサイ人や律法学者たちと激しく対立なさったのである。そして十字架につけられるときまで、彼らに対しても神が愛と憐れみのお方であることを説いてやまなかったのである。

 主イエスは律法そのものを否定されたわけではない。律法は神の言葉、聖なるものである。それゆえ、わたしたちも律法を守り行う。十戒は新約の教会とキリスト者にとっても、命の指標である。旧約は律法だが、新約は福音であるとの理解は誤っているのである。旧約の律法は福音に裏打ちされているし、新約の福音は律法をしりぞけるのではなく、反対に成就するのである。

 問題は、人は律法をどのように守り行うことができるのかということである。このことについては、これまでにも繰り返し語られていた。おのがわざによらず、信仰の恵みによって、十字架と復活の主のみ霊にうながされ、守られ導かれて、
人は律法を守り行う幸いな人とされるのである。