ローマの信徒への手紙を読む(第135回)

135 み言葉は近きところに(3)

 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と
記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。
「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」
これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」
これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
    
  (ローマの信徒への手紙10章5〜8節)

 10章6〜8節は、申命記30章11〜14節の引用である。もちろんパウロは、すでに旧約聖書の時代から神が近きお方であり、律法もまた近く親しき恵みの言葉であったことをこの申命記の箇所から証明することで、イスラエルがおちいった誤解をただそうとしているのである。  神はすでに旧約の民たちに向かって、わたしの戒めはむずかしすぎてあなたがたの遠く及ばないというようなものではないと語りかけておられる。それは天にあるものではないから、だれかが天に昇って取って来なければならないようなものではない。また海のかなたにあるようなものではないから、だれかが海に渡って取って来る必要はない。神がご自分の民の耳元で語りかけ、彼らの手足を支えて、みずからこの戒めに生きることができるようにしてくださっている。神が近くいますからこそ、この戒めは民のすぐそばにある。そのことを今イスラエルは思い起こすべきなのである。
 しかしこの手紙においては、パウロはこの申命記のみ言葉を、あきらかにイエス・キリストの光のもとで読み取っている。新約の使徒パウロは、すでに来たりたもうたキリストの光に照らして、旧約のみ言葉を読み解くのである。それが新約の教会が旧約聖書を解釈するときの態度なのである。
 神は旧約の民たちにも近くいましたが、キリストが来たりたもうたことにより、新しい契約のもとにある聖徒たちには、さらに近くいましたもう。神はみ子キリストを、ご自身とご自身の民との懸け橋として遣わしてくださった。それゆえわたしたちのほうから天に昇っていく必要はない。むしろそうすることは、十字架に死なれ、復活され、天に昇られたわたしたちの仲保者を、地に引き下ろすことになる。
 さらに、わたしたちのほうから底なしの淵、すなわち陰府の底にくだっていく必要もない(申命記では「海のかなた」であったのが、ここでは「底なしの淵」となっているが、もともと旧約聖書においても海は悪魔的な領域であるとの考えがあったので、この変更はローマの信徒たちにとっての支障とはならなかったはずである)。むしろそうすることは、わたしたちの罪の身代りとして死なれ、陰府の底にまでくだりたもうたイエス・キリストを陰府から引き上げ、その恵みのみわざを無意味なものとすることになる。
 そもそも、わたしたち罪人がキリストのみわざを代わって引き受けることができるのか。わたしたち自身がキリストのように死に、キリストのように陰府にくだって、自分を罪から救い出すことができるのか。わたしたち自身がキリストのように天に昇り、自分自身を神にとりなすことができるのか。そのようなことのできない無力なわたしたちのために、キリストは死んで甦られたのではないか。そのキリストの恵みのみわざに、わたしたちはもはや何ひとつとして付け加えるものはないはずではないか。補うものはないはずではないか−パウロはそのように問うて、キリストの恵みをなきものとするかのように自力に頼るイスラエルをただすのである。

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(8)

 神の言葉はわたしたちの近くにある。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)。そしてわたしたちの目で見、手でさわることができるほどにわたしたちに近づきたもうた。
 み言葉はわたしたちの口にある。神は十字架の言葉を、ご自身のみ口をもって、口づからわたしたちの耳に語りかけてくださる。
 そして、み言葉はわたしたちの心にある。キリストのみ霊がわたしたちの心を住まいとしてくださり、み言葉をとどまらせてくださるからである。
 このように近くいます神を、わたしたちと出会ってくださる恵みの神を受け入れることが信仰である。この信仰によって、神はわたしたちを義としてくださるのである。         (2009.8.26 祈祷会)