ローマの信徒への手紙を読む(第136回)

136 信仰と告白

 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、
あなた
は救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

(ローマの信徒への手紙10章9〜10節)

 9〜10節には、人がイエス・キリストを信じて救われるとはどういうことなのかということについて、明確に語り示されている。
 まず、信じることと告白することとが密接に結びついているということである。わたしたちが救いを受けるためには、もちろん心で信じるということがなければならないのだが、同時にその信仰を口で言い表すことも必要なのである。信仰とは心の中の問題だと考えている人も少なくないと思うが、決してそうではない。心で信じることと、その信仰を告白することとは切り離し得ないのである。
 関連して、人が救いを受けるということは公的な事柄であるということである。信仰とはプライベートな事柄、私事であると考えている人も、やはり少なくないと思うが、決してそうではない。ここでパウロが「公に」と二度繰り返していることは、小さなことではないのである。

 17節には「信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まる」と語られている。
 この「キリストの言葉」とは「十字架の言葉」(Tコリント1:18)であり、福音の言葉である。イエス・キリストは、実にわれらのために十字架に死なれた。そしてわれらのために復活された。これが古代教会の時代、まだ新約聖書が今のようなかたちにならないときから、キリストの教会が宣べ伝えてきた福音のよき知らせである。
 そしてキリストが十字架に死なれた以上、わたしたちはもはや罪に定められることはないこと、キリストが死に勝利して復活された以上、わたしたちはもはや死の鎖にとらわれてはいないこと、そのことを信じる者は、その信仰によって義とされると聖書は言う。
 この喜びの知らせを聞いた者は、この福音の恵みにうながされて、これを信じ、受け入れずにはおれない。そしてこの福音を信じ、受け入れた者は、イエスは主であると告白せずにはおれない。復活のキリストを礼拝せずにはおれない。
 すなわち心で信じた事柄はおのずから口で告白され、そして礼拝というわざとなって、
あるいは礼拝的人生というきわめて具体的な生活のありかたとなってあらわれずにはおれないのである。

 「口でイエスは主であると公に言い表し」という言葉の背後には、当時の教会の洗礼式のリタージがあったのではないかと言われている。つまり信仰を告白するとは、洗礼式の際に告白するということである。わたしたちの教派でも、洗礼式の際に信仰の告白を求める。洗礼志願者に対しては、洗礼式に先立って小会が試問を行う。これも公的な事柄としてあることである。
 なぜそのようにするのか。そもそも信仰はひとりよがりのものではないからである。キリストを信じると言うならば、おのおの自由に、好きなしかたで信じればよいというのではないからである。
   イエス・キリストを信じる信仰そのものが、教会が世々にわたって受け渡していくものなのである。コリントの信徒への手紙一15章でパウロが、イエス・キリストの十字架と復活の福音はわたしも受けたものであり、そのわたしも受けたものを今あなたがたにも伝えるのだと語っているとおりである。わたしたちが洗礼式の際に信仰を告白することそのものが、信仰は私事ではない、教会生活も私事ではない、古代教会から現代、そして未来の教会につながる聖なる公同の教会の一員としての、公のわざをなしたということなのである。

教会にも行かず、礼拝にも出席しないでひとりで聖書に親しんでいる人や、教会には足を運ばないけれどもわたしは聖書を読んでいるし、イエス・キリストを信じているという人を加えるなら、日本のキリスト教人口は実際の数をはるかに上回るとも言われる。けれども、やはりそこには信仰を私事ととらえる考えがあるのではないだろうか。まことの信仰とは人が自分の気に入る神をこしらえることではない。聖書に示されているままのイエス・キリストを信じ、受け入れ、このキリストこそわが主、わが神と告白することによって、わたしたちは救いを受けるのである。                            (2009.9.2 祈祷会)