ローマの信徒への手紙を読む(第137回)

137 主の名を呼び求める者は

 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
(ローマの信徒への手紙10章11〜13節)

 11節の「主を信じる者は、だれも失望することがない」は、9章33節にも引かれていたが、イザヤ書28章16節からの引用である。「主を信じる者」は失望しないのである。自分を信じる者はついに失望するほかはないのだが、主を信じる者はいかなるときにも失望することはない。
 そのように、ここであらためて信仰義認の真理が確かめられる。イスラエルは行いによる義、自力による救いという方向に傾くにいたった。しかし、これは聖書の真理からの逸脱である。人は行いによらず、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる。人は「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられると信じるなら」(9)、その信仰によって救われるのである。
 救いはキリストから来る。キリストの言葉を信じ受け入れるとき、キリストの十字架の贖いのみわざがわたしたちのうちに適用される。このキリストのみわざがわたしたちを救うのであって、わたしたちのわざが自分を救うのではない。
 それゆえカルヴァンは、信仰を管になぞらえた。管そのものは空である。しかし、この管をとおって、キリストが来たりたもうのである。わたしたちの信仰がキリストを来たらせる通りよき管であるなら、ここをとおって来たりたもうキリストによって、わたしたちは救いの恵みを受けるのである。信仰によって、わたしたちは義とされ、救われるのである。
 イエス・キリストを信じる信仰のみによって救いが来るということは、言葉をかえて言うなら、イエス・キリストを信じる信仰のほかに、わたしたちの救いはないということをも意味する。キリストのほかに、この世にはいかなる意味においても救いはない。人間のいかなるわざも、功績も、努力も、救いをもたらすことはできない。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4・12)

 そのように、救いはただキリスト(を信じる信仰)のみから来るのだが、ここでパウロはもうひとつのことをも明示している。イエス・キリストのみ名を信じる者は、だれであっても区別なしに救われるということである。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13)−これはヨエル書2章32節からの引用であるが、この旧約の預言がまさしく聖霊降臨の出来事において成就したことをわたしたちは知っている。「わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです」(使徒2:14c〜16)
 イエス・キリストのみ霊がくだりたもうことによって、キリストの救いがユダヤ人のみならず異邦人にも分け与えられ、全世界の民が福音の恵みに浴するとの神の約束は実現した。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(12)ことが、目に見えるしかたであきらかにされたのである。イスラエルはこのことを理解しなければならなかったのである。
 イスラエルは信仰義認の真理から離れ、自己義認の考えにおちいり、その結果自分のわざに頼り、異邦人たちを見下すにいたった。そこには民族的な優越意識、差別意識というものが根を張っていたであろう。しかし、聖書は救いにおいて民族的差別があるなどとは言っていない。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のである。
 イスラエルがこのようなかたくなな姿勢におちいったのはなぜなのか。それは「主の名を呼び求める」ことをいつしか忘れてしまったからではないだろうか。彼らはいつの間にか、自分のわざをのみ見るようになった。自分に何ができるのかということが、彼らのもっぱらの関心事となった。自分のわざに頼っているかぎりは「主の名を呼び求める」必要はないのである。
 信仰とは「主の名を呼び求める」ことである。心を開いて主を迎え入れることである。そのときわたしたちははじめて自由にされるのである。この世と人間のあらゆる限界からときはなたれるのである。

                             (2009.9.9 祈祷会)