ローマの信徒への手紙を読む(第138回)

138 信仰は聞くことによる

 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」
と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、
キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

 (10:14〜17)

信仰はどこから来るのか。信仰は人間の内なる何かによって生み出されるのではない。人間の積み上げる功績や、何か超常的な宗教体験によって生じるのではない
  
信仰は人間の外から来る。わたしたちの外なるお方−イエス・キリストから来る。イエス・キリストがみずからわたしたちに近づきたもう。その近づきたもうキリストを信じ、受け入れることが信仰である。信仰によってイエス・キリストを受け入れるとき、キリストはわたしたちの内に場所を占めたもう。「外なる」キリストが「内なる」キリストとなりたもうのである
  
信仰はそれ自身空虚である。管のようなものである。この管をとおってわたしたちのところに来たりたもうキリストこそが中身なのである

そして神は、罪人を救う救いの手段、またご自身と人間との交わりの手段として、言葉を用いることをみこころとされた。それゆえ「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(17)のである。これが神の秩序である
  
ここでの「キリストの言葉」とはキリストを説き明かす説教の言葉である。したがって「聞くこと」とはキリストを説教する言葉を聞くことである。すなわち、ここに言われていることは礼拝の場で起こることである。主の日の礼拝においてキリストを証しする書物である(ヨハネ5:39)聖書が朗読され、説教される。このキリストの言葉、キリストについての説教を聞くことによって、人は信仰へと導かれるのである。わたしたちもひとりひとり、そのような道筋をとおして信仰者とされたのである。
  
14、15節は、人が信仰に至る道筋をたどっている。人が信仰に至るためには、まず「遣わされる」ということがある。キリストの言葉を宣べ伝える者を、神が世に遣わしたもう。そして彼が「宣べ伝える」からこそ、人は「聞く」ことができる。キリストの言葉を「聞く」ことによって、人は「信じ」る。そして信じたからこそ、信じたお方を「呼び求め」るのである(だれを「信じ」ているのかわからないときには、人は「呼び求め」ることもできないのである)。
  それゆえ「良い知らせ」、すなわちキリストの福音を伝える者の足は美しいと言われる(ここはイザヤ52章7節の引用である)。この美しさは説教者自身がみずから醸し出す美しさではない。彼がゆだねられているキリストの言葉の美しさ、さらにはキリストご自身の美しさを説教者たちもおのずから帯びるということである。

以上のように「聞く」ことは信仰に至るための手段である。しかし聞くことは聞くことのみにはとどまらない。「聞く」ことは「生きる」こととひとつに結びついているのである。
    ヨハネによる福音書5章24節で主イエスは、わたしの言葉を聞いて信じる者は永遠の命を得ると仰せになっている。つまり、み言葉を聞くことこそが永遠の命を得る手段なのである。み言葉を聞くことによって、そして聞いたみ言葉を信じ受け入れることによって、主イエスそのものがわたしたちに伝達されるのである。主イエスがわたしたちのところに来たり、わたしたちを住まいとされるのである。主イエスの命がわたしたちに注ぎ込まれるのである。主イエスとわたしたちとがひとつの命を生きるということが、文字通り起こるのである。だからこそ教会は聞くことをおろそかにせずに歩んできたのである。説教のわざを教会の最も大切なしるしに数えてきたのである。
    ひとつ付け加えるなら、「聞く」とは「聞く」ことにとどまらず、「従う」ことを含んでいる。聞いたみ言葉を真実の言葉と認め、これに忠実に従うとき、わたしたちはまさにキリストの命を生きるのである。わたしたちの命と生活が生けるキリストの恵みの支配のもとに置かれるのである。