ローマの信徒への手紙を読む(第139回)

139 救いのみ手

 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。
 このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことで/
あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」
と言っています。イザヤも大胆に、
「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、
わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」
と言っています。しかし、イスラエルについては、
「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。
(ローマの信徒への手紙10章19〜21節)

 14〜17節は、信仰は何によって始まるのかという、信仰についての一般的な議論であった。すなわち、神は罪人を救う救いの手段、またご自身と人間との交わりの手段として、言葉を用いることをみこころとされたゆえに「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(17)。これが神の秩序であった。
 しかし18節以下では、またここでの固有の問題、すなわちイスラエルのつまずきの問題に戻る。イスラエルはなぜ神に背いているのか。それは彼らが「聞いたことがなかった」からであろうか。信仰がキリストの言葉を聞くことから始まるとすれば、キリストの言葉を聞いていない者たちは信仰を得られるはずはない。イスラエルが信じないのは、そのようにキリストの言葉をいまだ聞くにいたっていないからなのか。
 そうではないとパウロは言う。なぜなら今や「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」(18)との旧約のみ言葉(これは詩編19編4節の引用である)が成就しているからである。イエス・キリストの到来により、今や異邦人でさえ救いに招かれている。そうであれば、異邦人たちにはるかに先立ってみ言葉を聞く特権を与えられていたイスラエルが、聞いていないはずはないのである。

 それならば、イスラエルは聞いていたのに理解していなかったということではないだろうか。神の言葉は彼らの耳に届いていたのに、それを信じ、受け入れることができない彼らの側に問題があったということではないか。
 この点について、「モーセ」と「イザヤ」の言葉が引用される。すでに旧約の預言者イザヤが、大胆にも今目の前で起こっている逆説的現実、すなわちイスラエルが神につまずき、異邦人が福音を受け入れることになるという事態について語っている。「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」(20−イザヤ65:1の引用)
 さらにモーセも語っていた。「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」(19b−申命記32:21の引用)
 異邦人たちが信仰に入るのを見て、選びの民イスラエルがねたみを起こし、怒りを現す。これも、まさしく今目の前で起こっていることである。イスラエルはねたみによってイエス・キリストを十字架につけ、また異邦人伝道の使徒パウロがイエス・キリストをのべ伝えていることに怒りを燃やして、パウロを迫害しているのである。彼らにとってキリストのよき知らせは、怒りとねたみの対象でしかないのである。
 しかしパウロは言う。ここにもイスラエルに対する神の憐れみの深さを見て取ることができるのではないか。すなわちご自身に対して長く心を閉ざし、かたくなに聞こうとしない彼らに対して、ねたみを起こさせてまで振り向かせようとする神の救いの熱意が
あらわされているのではないか。

「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(21)。これはイザヤ書62章2節の引用である。ここでわたしたちは主イエスの嘆きのみ言葉をも思い起こすことができるであろう。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」(ルカ13:34)

 イスラエルは神が遣わしたもうた預言者たちを次々に葬り去り、ついにはみ子イエス・キリストをも十字架の上に葬り去った。しかしまことに驚くべきことに、このかたくなな、罪深いイスラエルに神は一日中救いのみ手を差し伸べたもうたというのである。
 そしてこの救いのみ手は、なおもイスラエルに向けて差し伸べられているのである。神はなおもイスラエルを捨てておられないのである(この事実はさらに11章以下に引き継がれ、論じられることになる)。み子を十字架につけた者たちに十字架の救いのみ手を差し伸べる−これが神の愛である。(2009.9.30 祈祷会)