ローマの信徒への手紙を読む(第14回)

14   真の割礼(その2) 

内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなくによって心に施された割礼こそ割礼なのです。 (ローマの信徒への手紙2章28,29節)

 パウロは2章17節以下で、律法を誇りとしていながら
これに背いて神を侮るユダヤ人たちの自己矛盾のありようを問いただしていた。
異邦人たちが律法を知らないゆえに、
被造物を神に仕立てることによって自分を神としているのに対して、
ユダヤ人たちは律法を自分に都合よく解釈し、
たくみに利用することによって自分を神の座につけている。
そのようにいずれも、あの始祖アダムにさかのぼる(創世記3:5)
自己神化の罪をおかしているのだが、
律法を知っているユダヤ人は異邦人以上にその罪を問われねばならなかったのである。


 さらに25節以下では、パウロは割礼の問題を取り上げる。
割礼はイスラエルの民として生まれた男子が生後八日目にほどこされるもので、
これを受けることで契約の民の一員であると見なされた。
つまり、割礼は恵みのしるしであった。

しかしいつの間にか、律法を与えられたことの恵みと
特権へのはきちがえと全く同じことが、割礼においても起こってきた。
つまり割礼を受けているかいなかということが、
ただ外面的な部分でだけ問題にされるようになり、
割礼のあるユダヤ人たちは割礼のない異邦人たちを自分たちと区別し、
差別するようになっていった。
そして、そのとき彼らはもっとも大切な問題
-生ける神の前で自分たちがどのように歩んでいるのかという問題を
置き去りにしてしまったのである。


パウロはユダヤ人たちに語りかける。
「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された割礼が割礼ではありません。
内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、
文字ではなく
‶霊‶によって施された割礼こそ割礼なのです。
その誉れは人からではなく、神から来るのです」(28~29)


 福音の恵みは、神に触れる恵みである。
わたしたちの外なるお方が、
聖霊によってわたしたちの内に住まわってくださる恵みである。
聖霊が、み言葉をあたかも彫刻をするようにして、
生ける言葉として私たちの心に刻みつけてくださる恵みである。
そのときわたしたちは、命そのものであられるお方に触れる驚きと喜び、
そしておそれに満たされる。
これが教会とキリスト者とを生かす命である。

この命はどこから来るのか。
パウロが言うように、人からではなく神から来る。
わたしたちキリスト者にとって真の割礼は、肉にほどこされるものではなく、
文字によるものでもない。
キリストのみ霊によって心にほどこされる割礼である。
これこそがほんとうにわたしたちを生かすのである。


 パウロはいにしえから神の選びの民であった、
そして数々の神の恵みと特権にあずかってきたユダヤ人たちに言う。
あなたがたの割礼はもはや形だけのものとなってしまった。
あなたがたは霊による真の割礼を見失ってしまった。
神の命を失ってしまった。

 これは新約の教会もまた、ともすると
みずからを生かす命の根を見失ってしまうことがあり得るとの警鐘ではないだろうか。


 信仰の形式主義は、人がいつの間にか命の神から自分を切り離し、
自分の内にあるものだけを見つめ始めるところから起こってくる。
神を見失うとき、人は自分の内面にある何者かにより頼もうとする。
主の日の礼拝につらなり、み言葉と聖餐の恵みにあずかり、
教会のさまざまな働きに忙しくしている生活においても、
これは起こり得る。
むしろそのような生活の中でこそ、
わたしたちはおのおのの魂のありようということに敏感であらねばならないであろう。


 古代教会の教父たちはひとりの人をみ言葉によって教え、
戒め、神に触れる命の喜びに導くことに、
すなわち魂の世話をすることに非常にたけていたと聞いたことがある。
彼らは、そういうわざができるような霊的な知恵と力とを豊かに備えていた。
このことに現代の教会は、今一度光を当てるべきではないだろうか。
そして彼らがそのような知恵と力とをどこから汲み取っていたのかを、
今一度問い直すべきであろう。
御霊によって心に割礼をほどこされた霊の人として生きるための手だてを、
頭なるキリストはすでにご自身の体なる教会に備えてくださっているのである。

                    (2006.12.27 祈祷会)