ローマの信徒への手紙を読む(第140回)

140 残りの者(1)
 しかし、神は彼に何と告げているか。
「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」
と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。
もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。

(ローマの信徒への手紙11章4〜6節)

 9章以下、パウロはイスラエルのつまずきについて論じてきた。イスラエルは神がみずから選びたもうた民である。その民がこともあろうに神につまずき、神に背いた。神が彼らのもとに遣わされた預言者たちを殺し、ついには神の子キリストを十字架につけた。選びの民が、悪しきことのきわみを行ったのである。
 イスラエルの不義は、神の義をとりちがえたところにあった。人は信仰によって義とされる。神の恵みにより救いを受ける。律法は、このことをわきまえているところでは命の言葉であるはずだった。
 しかしイスラエルは、律法を自力で守ることで人は自分を義とすることができると考えた。そのときイスラエルは神の義を捨て、神の恵みを捨てた。かわりに自分たちが絶対者であるかのように思いあがった。救いの事柄も、自分たちが判定すべき事柄であると信じた。そこに人間のエゴイズムを見ることができる。イスラエルは律法の遵守に熱心であったが、律法はかえって彼らの罪をあぶりだすこととなった。それは全人類が始祖アダムから受け継いだ罪そのものであった では、そのように罪におちたイスラエルを、もはや神は捨ててしまわれたのか。イスラエルは救いからもれてしまったのか。
 そのように考えて当然であろう。しかしパウロは断固とした口ぶりで言う−「決してそうではない」(1)
 神の前にイスラエルの罪はあらわであるにもかかわらず、神はなおイスラエルを捨てておられない。「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(10:21)と仰せになった方のみ手は、このみ言葉のとおりになお差し伸べられているのである。
 それならば、どこにその証拠はあるのか。パウロが挙げるのは、まず自分自身である。彼自身も「イスラエル人」であり「アブラハムの子孫」であり「ベニヤミン族の者」である。生粋の、由緒正しいイスラエルである(パウロにとって、かつてはそれらの地上的血統は誇るべきもの、頼るべきものであったが、今やそれらは「塵あくた」(フィリピ3:8)にすぎないと彼は言う)。そして信仰による義を否定し、自己義認、自己救済の教えを真理と信じ、それゆえにイエス・キリストを真理の敵と見なし、キリストの教会を迫害していた。その点でもまぎれもない「イスラエル」であった。
 そのパウロが今イエス・キリストにとらえられ、イエス・キリストのものとされ、キリストの使徒となって十字架の福音を宣べ伝えている。このことこそ、神が今なお選びの民を捨てておられないことの証拠ではないか。使徒パウロこそ、そのことの生き証人ではないか。

 今ひとつ、パウロは旧約聖書から例を挙げる。預言者エリヤの例(列王記上19章)である。イスラエルは、あなたにはわたしのほかに神があってはならないとの主のみ言葉に背き、バアルに膝をかがめた。王みずから、率先してバアル礼拝に手を貸した。すなわちアハブ王はシロの王の娘イゼベルを王妃として、バアル崇拝をイスラエルに導入した。これに反対したエリヤはイゼベルに命をねらわれ、ホレブの山に難を逃れた。
 このときエリヤは孤独と失意の底にあった。そして、神に訴えた−わたしは今まで情熱をかたむけてあなたに仕えてきました。ところがイスラエルの民はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺しました。イスラエルはこぞってバアルに膝をかがめ、わたしひとりだけ残りました。そのわたしも、今王妃に命をねらわれています。もうじゅうぶんです。ここでわたしの命を取ってください。
 すると、神はこう答えたもうたのである−「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」(4)
 エリヤは決してただひとりではない。孤独ではない。エリヤと同様、バアルに膝をかがめない者たちが七千人も残されている。エリヤはいかに勇気づけられたことか。この神のはからいが、今同胞のイスラエルに憎まれつつ異邦人伝道に献身しているパウロその人をも大いに力づけたであろうことはまちがいないのである。                                (2010.10.7 祈祷会)