ローマの信徒への手紙を読む(第141回)

141 残りの者(2)

 では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、
選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。
「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」
と書いてあるとおりです。
(ローマの信徒への手紙11章7〜8節)

 神はこぞってご自身に背いた背信のイスラエルにあっても、残りの者−忠実な信仰に生きる者たちを残しておられた。すでにエリヤの時代にそうであった。神は、もはやあなたを信じているのはわたしひとりである、他の者は皆背き去ったと訴えるエリヤにこうお答えになった−「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」(4)
 エリヤは決してただひとりではない。孤独ではない。エリヤと同様、バアルに膝をかがめない者たちが七千人も残されている。エリヤはいかに勇気づけられたことか。
   この神のはからいが、今同胞のイスラエルに憎まれつつ異邦人伝道に献身しているパウロその人をも大いに力づけたであろうことはまちがいないのである。すなわちユダヤ人のキリスト者たちは皆「残りの者たち」であり、そしてパウロ自身もそのひとりであることは言うまでもない。

 では、「残りの者」たちはどのようにして残されたのか。自力によって生き残ったのではない。神が彼らを残されたのである。彼らは神の恵みのあざやかなしるしなのである。神が彼らを「自分のために」(4)残しておいたと仰せになっていることに注目したい。背信の民のただ中にあって、なお信仰に生きることができる。もちろんそれは彼ら自身にとって大きな祝福であり、幸いである。
 けれども「残りの者」の存在は彼ら自身のためである以前に、何よりも神のためである。すなわち神の義とはどのような義であるのかをなおもさし示す証人として、神は彼らを残されたのである。自己義認に染まってしまっていたイスラエルにあって、なお信仰による義、恵みによる救いという不変の真理を語り示していたのが彼らであったのである。「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」(5〜6)

 「残りの者」の存在はまた、なお背きとかたくなさの中にある大多数のイスラエルの現状をもあぶり出す。それは旧約聖書のみ言葉も語り示すところである(8節は申命記29章4節とイザヤ書29章10節からの引用、9〜10節は詩編69編22〜23節の引用)。
 イスラエルの心は鈍く、その耳はもはや見えず、その耳はもはや聞こえない(8)。これは「ねむりこけて人事不省におちいっている状態」(松木治三郎)である。見えない目も聞こえない耳も、もはや何の役にもたたない。これはあきらかにイスラエルの霊的な無感覚、無理解の表現である。

 われわれは神の民ではないか。神に特別に選ばれた者たちではないか。そうである以上、どのような時にも神はわれわれを守られるはずではないか。どんなことであれ、われわれの身に悪いことが起こるはずがないではないか−誘惑者は彼らに働きかけて、そのように思わせようとした。しかし「このような思いから、祈り、あるいは服従に対するあらゆる霊的な怠惰とでもいうべきものが生じ、神の言葉に対する無頓着とでもいうべきものが生じる。そして、ついには心がかたくなになり、頑固になって、罪にとどまり、神の前に恐れがなくなり、安心しきってしまうのである」(D・ボンヘッファー)
 そのような霊的無感覚を露呈していることそのものが、イスラエルの背信に対する神の審判にほかならない。9〜10節は呪いの言葉である。世の終わり、主の再臨の日は近づいているのに、なお眠りこけている者たちが受けなければならない報いについて、すでにこのように詩編の詩人が語っている。わたしたちの世界、わたしたちの国、わたしたちの時代にあって、この霊的眠りという現実は決してよそごとではないのではないだろうか。わたしたちもまた、真に目覚めているとはどのようなことであるのかを深く問うてみる必要があるのではないか。
 それらのことを見た上で、なおひとつのことを確かめることができる。それは「残りの者」たちの存在が、この大多数の眠りこけた者たちにとっても希望であるということである。選びの民イスラエルの躓きと背信に対する神の審判のみ言葉は厳粛な、真に恐るべきみ言葉である。けれども、この審判のみ言葉はなお最後の言葉ではないのである。                           (2010.10.14 祈祷会)