ローマの信徒への手紙を読む(第142回)

142 つまずきの意味(1)

 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。
決してそうではない。
かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、
それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。                      (ローマの信徒への手紙11章11節)

 神の選びの民イスラエルが神につまずき、反対に異邦人たちがイエス・キリストの福音を信じ、受け入れている。さらに、ユダヤ人である自分が今異邦人の使徒として労し、働いている。この不可解な現実をめぐって、パウロはこれまで論じてきた。そして、神はもはや背信のイスラエルを捨ててしまわれたのかと問うた。
 この問いに、パウロはきっぱりと答えていた。決してそうではない。神の憐れみのみ手はなおもイスラエルに対して伸ばされている。その証明として挙げられていたのが、1〜10節に語られた「残りの者」の存在であった。神はあたかも暗闇の中にひとすじの光を輝かせるかのようにして、圧倒的多数のかたくなな者たちの中に、忠実な信仰に生きる者たちを残したもう。昔も今も残したもう。この「残りの者」たちこそ、イスラエルに対する神の愛と憐れみがなお途切れていないことの証しであったのである。
 そして11節以下からは、パウロはこれまでとはまた異なった、新しい視点からイスラエルのつまずきの問題を語る。これまでは「残りの者」について、つまりイスラエルの部分的な救いについて語られてきたのだが、ここからはさらに視野をひろげて、イスラエル全体の救いということが主題となるのである。

 「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」(11)
 ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか−そうパウロは問う。「倒れる」とは、倒れてもう二度と起き上がることができないという意味である。すなわち永遠の滅びにいたるということである。パウロは実に深刻な問いを問うているのである。
 しかし彼はすかさず、決してそうではないと答える。彼はつまずくことと倒れることとを明確に区別している。イスラエルは今つまずきの中にあるが、それは倒れてしまったということではない、つまずきとはただちに永遠の滅びに直結する事態ではない、今イスラエルが福音につまずいていることは、なお最後的なことではない、言わばそれは神の救いの計画におけるひとつの過程である−これがパウロの見方である。

 それどころか、パウロのここでの議論は、受け取りかたによってはイスラエルのつまずきがかえって異邦人の救いに役立っている、貢献しているとさえ読み得るのである。神は旧約の昔にもろもろの民の中からただイスラエルだけをお選びになった。そのときから、選びの民に課せられた大きなつとめは、諸国の民に神の救いの恵みを証しすることであった。そして今、イスラエルはなおもそのつとめを果たしている。逆説的なしかたではあるが果たしている。つまり彼らのつまずき、彼らの罪をとおして異邦人に神の恵みをさし示し、彼らの救いのために役立っている。
 パウロが言うことは確かに正しいのである。イエス・キリストを十字架につけて殺したのはユダヤ人たちである。十字架こそ人類の罪−アダムにある全人類の罪のきわまった場所である。人間の罪とは何か。そのことを知りたければ、わたしたちは十字架を目を凝らして見つめたらよいのである。
 しかしその暗黒の場所が、同時に人類を罪と死の支配からときはなつ光の場所でもあるのである。罪人がおのが罪の代価を支払って死の刑罰を受けるべき場所であったはずの十字架が、罪の赦しと復活の命、永遠の救いの祝福を受けるべき場所に転換したのである。イエス・キリストがわたしたちのかわりに死なれ、わたしたちの発穂としてよみがえられたからである。

 その光と命の知らせが、今異邦人たちにもたらされている。しかしここで問われるのである。もし選びの民がイエス・キリストを十字架につけなかったとしたら、人類の救いは実現したであろうか。もしイエス・キリストが十字架に死に、復活したまわなかったとしたら、福音の知らせは異邦人たちのもとに−全世界に届いただろうか。そう考えてみるなら、ユダヤ人の罪が異邦人の救いに貢献したということは確かにあったと言えるのである。

(2010.10.28 祈祷会)