ローマの信徒への手紙を読む(第143回)

143 つまずきの意味(2)

 では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。
決してそうではない。かえって、彼らの罪によって
異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、
彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、
まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
(ローマの信徒への手紙11章11〜12節)

 パウロはここで、イスラエルのつまずきがかえって異邦人の救いに役立っている、貢献しているとさえ語る。まことに逆説的なしかたではあるが、イスラエルは今も選びの民としての役割を果たしている。つまり彼らのつまずき、彼らの罪をとおして異邦人に神の恵みをさし示し、彼らの救いのために役立っている。
 パウロが言うことは確かに正しいのである。イエス・キリストを十字架につけて殺したのはユダヤ人たちであるのだが、もし選びの民がイエス・キリストを十字架につけなかったとしたら、人類の救いは実現したであろうか。もしイエス・キリストが十字架に死に、復活したまわなかったとしたら、福音の知らせは異邦人たちのもとに−全世界に届いただろうか。
    そのように考えてみるなら、ユダヤ人の罪が異邦人の救いに貢献したということは確かにあったと言えるのである。

 実は、そこにはとどまらない。イスラエルは今確かに神につまずいている。しかし、これもなお最後的なことではない。すなわち今異邦人のところに福音がのべ伝えられていることは、実は間接的なしかたでイスラエル全体の救いにも役立つことになるのである。
 異邦人が福音を受け入れていることが、イスラエルに「ねたみを起こさせる」(11)ことになると言われる。この「ねたみを起こさせる」という言葉は、原文では奮起させる、鼓舞するという意味も持つ言葉である。つまり異邦人たちがイスラエルを奮起させる。本来の神の選びの民としての自負をよみがえらせる。そして福音に目を開かせ、やがてはイスラエルもまた救いを受けることにつながっていくというのである。
 「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」(12)
 神は万事を益となしたもうお方である。選びの民の罪さえ用いて、全世界の救いを成就したもうお方である。今イスラエルは福音を拒絶しており、「残りの者」だけが福音に忠実に生きている。しかしイスラエルの罪は世の富となり、イスラエルの失敗は異邦人の富となった。彼らの罪をとおして異邦人が救いを受けている。
 そして、異邦人たちの救いという回り道を経由してではあるが、ついに「残りの者」以外の、今はかたくなにされているイスラエルも救いに入れられることとなる。そのことは今すでに起こされつつあることであるが(パウロこそその証人である)、それは終わりの日にこそ成就し、完成にいたるのである。神はまず異邦人たちを救い、続いてイスラエルをも救いたもう。こうして全人類に対する神の救いの計画は完成し、成就するのである。

 イスラエルが一度つまずいたのは、再び立ち上がるためであった。その日にはイスラエルは、彼らをとらえていたつまずきから完全にときはなたれていることであろう。彼らのつまずきとは、神の救いのみわざに自分もまた手を貸そうとする高ぶりにほかならなかった。
 しかし、その日には彼らもまた、人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる、ただ神の恵みによって救いを得るとの確信に立ち、今やわれらはイエス・キリストのものであると告白し、イエス・キリストをひたすらほめたたえて生きる者とされているであろう。
 イスラエルが一度みずからの義につまずいたことは、彼らのために益となったのである。わたしは決してあなたを捨てないと言い放ったペトロには、鶏が鳴く前に三度主を否む経験が必要であった。熱心なファリサイ人であったパウロにも、ダマスコ途上で復活の主の光に打ち倒される経験が必要であった。神の民イスラエルもまた神の恵みによってつまずきをのりこえ、神の恵みによって救いを受けることとなるのである。そしてそれは「ヤコブ」から「イスラエル」へと名前を変えられた、彼らの父祖の恵みの経験をそのままなぞるものにほかならないのである。
                         (2009.11.4 祈祷会)