ローマの信徒への手紙を読む(第144回)

144 隠された真実(1)

 では、あなたがた異邦人に言います。
わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。

(ローマの信徒への手紙11章13〜14節)

 救い主イエス・キリストの到来により、今や異邦人にも福音がのべ伝えられ、彼らは福音を信じ、受け入れている。他方選びの民イスラエルは福音につまずき、キリストを十字架につけ、今も教会を迫害している。この不可解な事実に正面から向き合いながら、パウロはこのこともまた救いの歴史における神の計画に組み込まれたことであること、これは神がよしとしておられることで、ここにも神の隠された真実があるのだということを次第にあきらかにしていく。
 13〜16節では11〜12節を引き継ぎながら語られていくが、ここではパウロはローマ教会の信徒たちに直接語りかけている。ローマ教会も(わずかにユダヤ人の教会員もいたようだが)異邦人教会である。自分自身はユダヤ人でありながら異邦人の使徒として召されたパウロが、この教会の土台をかためるためにも力を尽くしたのである。

 そのローマ教会の信徒たちに、パウロは13節で言う。「わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います」
 イスラエルのひとりでありつつ、異邦人に福音をのべ伝える者として今自分が召され、立てられていることを自分は誇りとすると彼は言うのである。なぜであろうか。これまで見てきたように、パウロは今イスラエルが福音につまずいていることは神が彼らを捨ててしまわれた証拠だとは考えていない。そうではなく、やがてイスラエルにも悔い改めの時が来る。今は異邦人が先に救われているけれども、イスラエルもまた救いを受けることになる。それが神の計画である−それが彼の確信であった。
 そして今自分が異邦人たちを救いに導いていることが、イスラエルの救いのためにも間接的に役立つことになる。つまり今自分は異邦人のために神に仕えているようで、実はイスラエルのためにも仕えていることになる−パウロはそのようにも信じていたのである。なぜなら、異邦人の救いはまさしくイスラエルの救いの契機ともなるのだからである。

 14節でパウロは語る。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」
 異邦人がイスラエルにねたみを起こさせることになることは、先の個所でも論じられていた。それは異邦人の放つキリストの香り、福音の命のよき香り(二コリント2:14)にイスラエルもまたとらえられるということである。キリストを信じる者はキリストとともに十字架につけられ、罪の体を葬られ、キリストとともに新しい命、永遠の命に復活する。死の香りを放っていた者が命の香りを放つようになるのである。
 そしていかにかたくななイスラエルも、このキリストのよき香り、不可抗的恵みを拒むことはできない。それゆえキリストを信じた異邦人たちに触れることにより、自分たちもまた悔い改めてキリストにたちかえることとなるのである。ねたむとは奮起する、うらやましく思う、士気を鼓舞されるといった意味の言葉である。異邦人たちがあずかるキリストの命のすばらしさがイスラエルをうらやましがらせ、
自分たちもこの救いにあずかろうと奮起させることになるのである。


 そのことは、やがてイスラエルの全体が救われる日の来ることの確かな保証である。だからこそパウロは、このつとめに励むことによって何とかして幾人かでも彼らを、わたしの同胞であるイスラエルを救いたいと願っているのである。

 さらにパウロは、このことがただ彼の個人的な願いにとどまるものではないことを知っている。異邦人をとおしてイスラエルも救いに招かれるということは、何よりも神ご自身の計画なのである。神の隠された真実なのである。
 この、今は人の目には隠されているが、やがてあきらかにされる神のくすしい計画に、今パウロは仕えているのである。だからこそ彼は今自分に与えられている異邦人伝道の使命を誇りとし、ひたすらにこのつとめに邁進するのである。                            (2009.11.11 祈祷会)