ローマの信徒への手紙を読む(第145回)

145 隠された真実(2)

 では、あなたがた異邦人に言います。
わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、
彼らが受け入れられることは、死者の中からの命ではなくて何でしょう。
麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、
根が聖なるものであれば、枝もそうです。

(ローマの信徒への手紙11章13〜16節)

 14節でパウロは、いかにかたくななイスラエルも、キリストの不可抗的恵みを拒むことはできないこと、それゆえキリストを信じた異邦人たちに触れることにより、自分たちもまた悔い改めてキリストにたちかえることとなるのだということを論じていた。それはやがてイスラエルの全体が救われる日の来ることの確かな保証であるゆえに、パウロは、このつとめに励むことによって何とかして幾人かでも彼らを、わたしの同胞であるイスラエルを救いたいと願う。
 さらにパウロは、このことがただ彼の個人的な願いにとどまるものではないことをも知っている。異邦人をとおしてイスラエルも救いに招かれるということは、何よりも神ご自身の計画、神の隠された真実なのである。
 14節についてひとつのことを付け加えるなら、新共同訳が「同胞」と訳している言葉は、原文では「肉」という言葉である。コリント第二書5章16節では、パウロはわたしたちは今後だれをも肉に従って知ろうとはしないと語っている。またコリント第一書12章3節では、だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白することはできないとも語っている。
 つまり、パウロはイスラエルの大多数がいまだにイエス・キリストを肉によってしか、人間的なしかたでしか知ってはいないのだと理解している。彼らはいまだに霊の人ではなく、肉の人にとどまっているのである。しかし、イスラエルがみ霊によってキリストを知る日が来る。その日こそ、イスラエルが真にイスラエルと呼ばれる日なのである。アブラハム、イサク、ヤコブの信仰にたちかえる日なのである。イスラエルを真のイスラエルとして回復したもうこと、それは神のひたすらなる恵みによることなのである。

 15節である。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命ではなくて何でしょう」
 「彼ら」とはイスラエルをさす。「世界」とはイスラエルを除く全世界、すなわち異邦人たちのことであると考えられる。したがって「彼らの捨てられることが、世界の和解となる」とは、イスラエルが神につまずいたことが異邦人たちの神との和解につながったということであろう。イエス・キリストが選びの民の手によって十字架につけられなければ、世界は救われなかったのである。このこと自身もまことにくすしい、
神の隠された計画、隠された真実と言うほかはない。

 しかし、さらにパウロはたたみかけるようにして言う。そのイスラエルもまた神との和解に導かれ、神に受け入れられるということもまた神の隠された計画である。だとすれば、それはまさに死者が命を得たということではないのか。ほとんど死に絶えていた民が息を吹き返したということではないのか。イスラエルの回心は、異邦人の回心にまさるともおとらない、神の偉大なる恵みのみわざなのである。
 16節である。「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」
 ここにはふたつのたとえがある。ひとつは麦の初穂と練り粉全体のたとえ、今ひとつは聖なる根と枝のたとえである。最初のたとえは民数記15章17節以下にもとづいている。麦の初穂、その年の最初の収穫からつくったものを供え物としてささげて聖別したなら、その一年に収穫された麦の全体も同様に聖なるものであるということである。「根が聖なるものであれば、枝もそうで」あるとの後のたとえも、意味するところは同じであろう。

 この「初穂」「根」が何をさすのかについては、ふたつの考え方がある。ひとつは、これをイスラエルの残りの者と解釈する考え方である。もうひとつは、これをアブラハム、イサク、ヤコブといったいわゆる族長たちとする解釈である。ただ、これはどちらかひとつを取るというようなことでなく、残りの者たちが族長たちの信仰を今も受け継いでいると考えるなら、ふたつの解釈を区別する必要はないであろう。

(2009.11.18 祈祷会)