ローマの信徒への手紙を読む(第146回)

146 隠された真実(3)

 では、あなたがた異邦人に言います。
わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、
彼らが受け入れられることは、死者の中からの命ではなくて何でしょう。
麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、
根が聖なるものであれば、枝もそうです。

(ローマの信徒への手紙11章13〜16節)

「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命ではなくて何でしょう」(15)
 パウロはここでイスラエルが救いを受けること−イスラエルが(順序からすれば異邦人の救いの後に、ということになるものの)躓きから立ち直って悔い改め、神との和解にいたることを、死者の復活になぞらえている。これは注目すべきであろう。神の選びの民が背きの罪の中に置かれていたことは、死んでいたということであったのである。そして選びの民が神にたちかえることは、死んでいた者が息を吹き返すということなのである。
 ここでわたしたちは、この手紙の4章が、彼らの父祖アブラハムの信仰について語っていたのを思い起こす。「『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(4:17〜18)

  創世記15章6節には、アブラハムが信仰によって義と認められたとある。この手紙においても、パウロが繰り返しこのみ言葉に言及していたことはすでに見てきたところである。今アブラハムの子孫であるイスラエルは、彼らの祖アブラハムの信仰を大いに踏み外してしまった。彼らの律法主義−人間が神の位置に立ち得るかのような宗教は、神の恵みを無にし、神の真理にさからい、はてしなく神から遠ざかっていく道であった。
そして彼らはキリストを十字架につけた。
 アブラハムは信仰によって義と認められた−ここにわたしたちは、言葉を補うことができる。
「アブラハムは『復活』信仰によって義と認められた」
 アブラハムは「死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる神を」信じたのである。「希望するすべもなかったときに」、この復活の信仰により「なおも望みを抱いて、信じ」たのである。アブラハムの信仰は復活信仰であり、復活の神が彼を義としたのである。 人は自力でおのが罪を贖うことはできない。人間に、死者を復活させる力はない。人間の行いや功績、人間の正しさが、罪と死に対する勝利をもたらし得るのではない。神こそが、そのような力を持っておられる。死者をよみがえらせ、無から有を生み出すことのできる唯一のお方こそアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、イエス・キリストの父なる神である。この神を信じることが信仰なのである。

  今パウロはアブラハムと同じように、信仰によって義とされた人間として語っている。父祖アブラハムと同じ場所に自分も身を置いて語っている。イスラエルの躓き、神への背きは深刻である。そのかたくなさは絶望的なかたくなさである。
 しかし、神は愛するイスラエルをもう一度ご自分のふところに取り戻したもう。なぜなら神は「死者に命を与え、存在していない者を呼び出して存在させる」ことさえおできになる、全能の神だからである。
 異邦人たちが救われた後に、イスラエルの全体もまた救われる。このことは今はまだ神の隠された真実である。いまだ目にうつる現実としては見えていないことである。
 けれどもパウロは、今すでに信仰の目をもって、このすばらしい祝福をはっきりと仰ぎ見ている。アブラハムと同じ信仰によって仰ぎ見ている。子供のないままに年老いていたアブラハムに、神はあなたの子孫を海の砂、空の星のようにすると約束された。アブラハムは信仰によってこの約束を信じ、受け入れ、彼の子孫から選びの民イスラエルが生まれた。
 同じように今パウロは、神がイスラエルを取り戻したもうことを、あたかもすでに起こったことのようにして信じ、疑わない。この確信と希望とが彼の福音宣教の働きをしっかりと支え、励ましていたのである。                      (2009.11.25 祈祷会)