ローマの信徒への手紙を読む(第147回)

147 慈しみと厳しさ(1)

 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、
その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分
を受けるようになったからといって、
折り取られた枝に対して誇ってはなりません。
誇ったところで、あなたが枝を支えているのではなく、
根があなたを支えているのです。
(ローマの信徒への手紙11章17節)

 主イエスが先なる者は後に、後なる者は先にと仰せになったまさにそのとおりのことがイスラエルと異邦人との間に起こる、すなわち選びの民が福音につまずく一方、異邦人たちが福音を信じ受け入れるということが起こるのだということを、パウロは11章に入ってからずっと述べてきた。
 ただし、そのことは神がイスラエルを捨ててしまわれたということでは決してない、今は異邦人たちの救いの時であるけれども、やがてイスラエルも悔い改めて神にたちかえり、救われる−そうパウロは信じているのである。
 さらに、今異邦人たちが救われていることも、実は間接的なしかたでイスラエルの救いにも貢献することになる、なぜなら救われた異邦人たちの放つキリストのよき香りが、やがてイスラエルをも不可抗的にとらえていくことになるからである、イスラエルを奮起させ、はじめの愛にたちかえらせていくことになるからである−そのようにもパウロは、ローマ教会の信徒たちに語りかけていた。
 ただ、パウロがローマ教会、すなわち異邦人の信徒たちに本当に伝えたかったことは、17節以下である。13〜16節は前置きである。したがって13節のでは、あなたがた異邦人に言います」という言葉は、直接には17節以下につながるのである。

 パウロは17節以下を、すでに読んだ16節の後半で用いたたとえをそのまま引き継ぐようなかたちで語り始める。16節後半は根と枝のたとえであった。「根が聖なるものであれば、枝もそうです」
 「根」とは神の選びの民イスラエルの土台のことである。具体的にはアブラハム、イサク、ヤコブといった旧約聖書創世記に出てくる父祖たちをさしていると思われる。アブラハムは信仰の父と呼ばれる人である。
パウロはこの手紙の4章でも、アブラハムの復活信仰について触れていた。

 ヤコブはヤボクの渡しで神の人と格闘し、自分を砕かれて神に信頼する人に生まれ変わる。腿の関節をはずされ、びっこをひいて歩くようになったこと、もはや自力では歩けない者となったことがその証しである。「ヤコブ」とは「かかとをつかむ」者、すなわちエゴイストという意味をもつ名であったが、「イスラエル」とは「神は勝利」という意味である。聖書においては、このような者こそが勝利者なのである。
 そして神の選びの民はこのヤコブ−イスラエルを祖として、彼の12人の息子たちから生まれたのである。それはアブラハムが、わたしはあなたの子孫を海の砂、空の星のように増やすと仰せになった神のみ言葉を信じ、その信仰によって義と認められた、そのアブラハムに対する約束の実現、成就でもあったのである。アブラハムから生まれた子孫は本当に海の砂、空の星のように増え広がり、イスラエルというひとつの民、信仰の民となったのである。

 つまりイスラエルとは信仰によって義とされた父祖たちの、その信仰を「根」とし、土台として、自力によらずひたすらに神に信頼を置き、
いっさいを神にゆだねて生きる民ということである。
 今イスラエルは神に背いている。それは神を捨て、自分を義として生きているということであり、自分たちが神の助けと支えなしには一歩も歩くことのできない者たちであるという事実を忘れてしまっているということである。これはイスラエルという名にふさわしくないことである。
けれどもすでに見たように、イスラエルはやがて真のイスラエルとなる、本来の歩みにたちかえる、それがパウロの確信であったのである。

 そこで16節後半であるが、根が聖なるものである、すなわち父祖たちが聖なる者として、よき信仰に生き抜いたことは、枝もまた聖なるものであることの証明である。よき根からはよき枝が繁る。つまり父祖たちが聖なる者として恵みの信仰に生きたならば、その子孫、そこから延びる枝であるイスラエルもまた聖なる者とされているわけである。それゆえに、今はつまずきの中にあっても、イスラエルは神の定めたもうたときに、必ず神のふところに戻ってくる。それが神の計画だからである。

                           (2009.12.2 祈祷会)