ローマの信徒への手紙を読む(第148回)

148 慈しみと厳しさ(2) 

 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、
その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分
を受けるようになったからといって、
折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、
あなたが枝を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
(ローマの信徒への手紙11章17節)

「根が聖なるものであれば、枝もそうです」(16)−根が聖なるものである、すなわち父祖たちが聖なる者として、よき信仰に生き抜いたことは、枝もまた聖なるものであることの証明である。よき根からはよき枝が繁る。つまり父祖たちが聖なる者として恵みの信仰に生きたならば、その子孫、そこから延びる枝であるイスラエルもまた聖なる者とされているわけである。それゆえに、今はつまずきの中にあっても、イスラエルは神の定めたもうたときに、必ず神のふところに戻ってくる。それが神の計画だからである。そのようにパウロは語っていた。
この根と枝のたとえを受けて、パウロはローマの信徒たち、すなわち異邦人たちに向けて語り始める。結論から言うなら、これは異邦人信徒たちへの戒めの言葉である。

 17節でパウロは、ある枝が折り取られ、野生の枝がかわりにそこに接ぎ木される場合について論じている。ふつうは接ぎ木をする場合、野生の木を台木として、その枝を切り取り、そこによい花や実のなるよい枝を接ぐのであるから、ここでパウロが述べていることは接ぎ木の常識からすれば正反対のことである。それで、パウロは園芸の知識をわきまえていなかったのではないかという人もあるが、ここはたんなるたとえとして語っているにすぎず、その点をさほど問題にする必要はないであろう。
 問題は、この接ぎ木のたとえの意味するところである。ここで台木とは選びの民イスラエルをさす。この台木の根は、先に見たようにアブラハム、イサク、ヤコブといった聖なる父祖たちである。根は聖なるものである。しかし、この木の枝は今折り取られている。つまりイスラエルは神に背き、福音につまずいて、神の審判によって折り取られてしまっているのである。
 かわりにそこに接ぎ木されたのが野生のオリーブ、すなわち異邦人である。よい根をもつ木に接がれた野生の木は、根から豊かな養分を受けることになった。汲めども尽きせぬイエス・キリストの命に豊かに養われて生きることとなった。
 しかし、パウロはここで異邦人信徒たちに戒めを与える。あなたがたはこのこと、すなわち現在のあなたがたの境遇が、ただ神の恵みによって与えられたことを覚えていなければならない。だから接ぎ木をされたからといって、折り取られたイスラエルに対して誇ってはならない。また、イスラエルを軽蔑してはならない。

 異邦人は神の恵みによってイエス・キリストを信じる信仰へと招かれた。後なる者が先となった。パウロその人も、自分はイスラエルに属する者でありながら、異邦人伝道の使徒として召され、働いている。
 しかしその異邦人教会においても、早くもこのように警告しなければならない事態が起こりつつあったということを、わたしたちはパウロの別の手紙からも知ることができる。たとえばコリントの信徒への手紙によれば、コリント教会には党派争いと教会分裂の危機に直面しており、信徒たちの倫理的な乱れや混乱もはなはだしかった。
 こうしたものは異常人信徒たちの高ぶり−神の恵みを忘れ去った高慢から生じたものであった。パウロは言う−あなたがたが誇ったところで、なおあなたがたを支えているのは根、すなわち聖なるイスラエルの父祖たちであって、あなたがた自身ではないのだということを忘れてはならない。
 パウロはここでも、救いの歴史における秩序というものをきちんとわきまえている。つまり今がどのような状態かは別として、イスラエルは神の選びの民なのである。異邦人たちに先だって選ばれた民なのである。その事実は永遠に変わることはないのである。
 異邦人たちが覚えておかねばならないことは、そのイスラエルが折り取られたのは彼らの不信仰のゆえであったということである。すなわち、イスラエルは彼らにとって反面教師なのである。今救いの恵みへと招かれている彼らも、恵みを忘れて自分を誇るようになるならば、イスラエルと同様に折り取られることにもなりかねない。そのようにパウロは、異邦人たちに自戒をうながすのである。

                           (2009.12.9 祈祷会)