ローマの信徒への手紙を読む(第149回)

149 慈しみと厳しさ(3)

 だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。
倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、
あなたに対しては慈しみがあるのです。
もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。

(ローマの信徒への手紙11章22節)

 異邦人たちが覚えねばならないのは、選びの民イスラエルが折り取られたのは彼らの不信仰のゆえであり、今自分たちが接ぎ木されているのは信仰のゆえであるという事実である。
   したがって、もはや古い民は折り取られた、選びの民の時代は終わった、これからは異邦人であるわれわれの時代だ−ことは、そのような単純な問題ではないのである。神にとって人のありかたをはかるものさしは信仰か、不信仰か、その一点である。人はただ信仰によって義とされるということであれば、それは当然のことである。
  
その一点におうて、神はもともとご自分のものであった木、長い時間をかけ、尋常ではない愛と慈しみをもって育んでこられた枝すらも折り取られた。ということは、接ぎ木された木ももしも不信仰におちいったなら、やはり折り取られるということである。選びの民さえ容赦されないとしたら、神はなおさら異邦人たちをも容赦されないはずである。
   
そのことを理解するなら、ここで異邦人の信徒たちは誇るよりもむしろ畏れねばならないであろう。そして22節でパウロが言うように、神の慈しみと厳しさとを考えねばならないであろう。悔い改めてたちかえるならいかなる罪人をも十字架の血潮によって贖い、ご自身の子としてくださる神の慈しみ、そして自分を誇って恵みをないがしろにするならば愛する民さえも折り取る厳しさをである。

イスラエルと異邦人とは、エデンで木の実に手を伸ばして罪におちたアダムのすえであるということにおいて同じである。このアダムにあって自分で自分を救い得ないこと、それゆえにただ神の恵みによって救われ、信仰によって義とされるという点において同じである。ともに誇るべきものは何もなく、誇るとすればただ主を誇る者であるという点において同じである。区別はないのである。
   イスラエルはいつしかそのことを忘れてしまい、それゆえに折り取られた。けれども異邦人たちにも、イスラエルとまったく同じことが起こり得るのである。彼らもまた神が恵みの賜物として与えてくださったものをさも自力で得たかのように錯覚し、自分を高くして隣人をさばく愚かさにおちいらないように自戒せねばならないのである。彼らもまた最初は何も持たず、何ごともなし得なかったということ、今豊かな賜物を受けており、信仰の知識を得ているとすれば、それらはすべて神の恵みによる贈り物であるということを深くわきまえていなければならないのである。そうでないとキリストを信じ、告白する者であっても、信仰によらず功績によって、神の義でなく自分の義によって生き始めるということが起こってくるであろう。

たとえば予定の教理は、神の恵みの確かさを教える聖書の真理である。しかしこの恵みの教えすら、ひとつ間違えるなら特権意識につながりかねないものであることを覚えていなければならないであろう。22節でパウロは、神の慈しみにとどまるかぎり慈しみがある、もしとどまらないならあなたがたも折り取られると語っている。この神の慈しみと厳しさとを忘れないでいるということが、信仰の知恵である。このことを覚えているということが、わたしたちが永遠の命に入れられるために不可欠のことなのである。まさしく主を畏れること、主のみ前にへりくだることこそが知恵の初め(箴言1:7)なのである。

終わりにマルティン・ルターの言葉を引く。「この世のどこにおいても、まったく純粋な福音が、人々の思いの中にとどまり続けたことはない。福音が立てられ増し加わっても、とどまっている間に扇動され、それがその場所から去ったときには、暴徒の群れや偽りの教師のあとについて福音の光もまた去ってしまったのである。愛する兄弟たちよ、買いなさい、市が目の前にあるときに。刈り取りなさい、天気がよくて、日が照っている間に。神の恵みと言葉を用いなさい、それがそこにある間に。それはイスラエル(ユダヤ人)の間にあったのだが、過ぎ去ってしまったことはしかたがない。今そこにトルコ人がいる。そしてあなたがたは、福音を永遠に持っていると思ってはいけない。なぜなら、福音は感謝のない、なおざりにするようなところに長くとどまることを許されないであろうから」                                    (2010.1.6 祈祷会)