ローマの信徒への手紙を読む(第15回)

15 神の真実

 わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、
神の栄光となるのであれば、
なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
(ローマの信徒への手紙3章7節)

 3章1〜8節は、パウロとユダヤ人たちとの論争において、
パウロが彼らに応答している部分であると思われ
る。
ユダヤ人たちのある人々は、
パウロと彼の同労者たちの福音宣教の働きを脅かしていたようである。
そうい
う現実的な状況に直面しつつ、パウロはここで論じているのである。

 ユダヤ人たちがパウロの語る言葉をよく思わなかったことは理解できる。
なぜなら(前回も触れたように)
は従来からユダヤ社会に存在していた
ユダヤ人と異邦人という区別の枠組みを根本からくつがえしてしまったか
らである。
ユダヤ人たちは、自分たちは律法と割礼とを与えられた神の選びの民であるゆえに、
生まれながらに
特権的な地位にあり、
またおのが力で律法を完璧に守り抜くことのできる正しい者であると、
一方異邦人たちは
生まれながらに汚れた、
罪深い者たちであると信じて疑わなかった。

 しかしパウロは、
ここまでのところでユダヤ人も異邦人もともに神の前に罪人であることをあきらかにした。

そして外見上の割礼が問題なのではなく、
聖霊によって心に割礼がほどこされていることこそが大切なことであ
って、
そこではもはやユダヤ人と異邦人との区別はないのだと論じていた。

 このパウロの主張は、ユダヤ人たちの揺るぎなき足場を地割れのように突き崩した。
それまで信じて疑うこと
のなかった地盤を揺るがされると、
人は言いようのない不安にかられる。
その不安が、パウロの語る福音の言葉
に対するかたくなさとなって、
ここにあらわれていると言えないだろうか。

 パウロはすでに信仰による義の真理を示した(1:16〜17)。
この真理はユダヤ人たちにとっては耐えがた
いものであった。
神がキリスト・イエスを信じる信仰によって
ユダヤ人も異邦人も区別なしに救いたもうとの知
らせは、
彼らがせっかく積み上げてきた功績、行ない、努力を無意味にし、
反古にすると思われたからである。

そして彼らは「選びの」民と「汚れた」民とを分け隔てなく取り扱う神をねたみ、
福音を語る者たちを中傷した
のである。

 けれどもここでの彼らの中傷の言葉は、
パウロも5節で言うように「人間の論法」を出るものではなく、
それ
どころか、ただ言葉じりをとらえてこじつけただけのむなしい言葉でしかなかった。

 彼らの背後には、たとえばあの義人ヨブを苦しめた三人の友人たちにも見られた、
きわめて常識的な因果応報
論があったであろう。
パウロが、人間の不義が神の義をあきらかにする(5)と論じたのに対して、
彼らは反論
する
−もしも人間の罪と不義とが神の義をあきらかにすることに役立っているとしたなら、神は自分の義をあき
らかにしてくれる人間に感謝すべきであって、その人間の不義に怒りを燃やすなどということはおかしいではないか。

 確かにパウロは、人間の偽りによって神の真実がいっそうあきらかにされて、
神の栄光があらわされると語っ
ていた。
しかしそれは(これまでこの手紙を読んできてあきらかなように)
人の悪の中で神のよきことがいっそ
うあざやかに示される(創世記50:20)、
人の罪のただ中で、人を罪から救う神の救いのみわざが光り輝くと
いう意味であった。
そのような福音の奥義に、彼らは届かなかったのである。

 人のはかる悪によって神の義がいよいよあらわされるというのなら、
人は神の栄光のためにいよいよ悪をはか
ることにつとめたらよい
(実際に彼らはパウロたちのことを、
神の栄光のために悪しきことをなせと勧めている
者たちだと触れ回っていた)
との彼らの理屈も、このあさはかさから出たものであった。

 神の真実はどこにあらわされたのか。
キリスト・イエスの十字架においてである。
キリストは罪なきお方であ
ったのに、十字架に死んで全人類の罪を贖いたもうた。
これは旧約の時代における、犠牲の動物の血による罪の
贖いの恵みの完成であり、
成就であった。
このキリストの血による新しい契約の成就こそ、
まことに神が私たち
人間の不義にもかかわらず、
ご自身の真実をつらぬき通されたことの証明なのである。
神はこの新しい契約の恵
みによって、
ご自身を信じる者たちの心に真の割礼をほどこしてくださるのである。
そこにはユダヤ人と異邦人
の区別はないのである。
                                   (2007.1.3 祈祷会)