ローマの信徒への手紙を読む(第150回)

150 秘められた計画(1)

 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、
次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。
すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、
異邦人全体が救いに達するまでであり、
こうして全イスラエルが救われるということです。
(ローマの信徒への手紙11章25〜26(a)節)

 11章25〜36節は、9章から論じられてきたイスラエルのつまずきをめぐる論述の結論部分である。ここで、なぜ神の選びの民がそれにもかかわらずかたくなになり、キリストの福音を拒んだのかという、あのきわめて困難な問いに最後的な答えが与えられることになる。そしてそれは、神の秘められた計画があきらかにされることにほかならないのである。
 パウロは異邦人のキリスト者たちに、この神の「秘められた計画」を明かす。それは異邦人キリスト者たちが「自分を賢い者とうぬぼれないように」であると言われる。先の個所でもパウロは、あなたがたは聖なる根に接ぎ木された野生のオリーブであり、ただ神の恵みによって継がれているのだから、この恵みを忘れ去るならあなたがたも(選びの民イスラエルのように)折り取られることになると警告を与え、ローマ教会の信徒たちを戒めていた。ここでも、この戒めが引き継がれる。
 ローマのキリスト者たちも、あるいはコリントのキリスト者たちも、知的な人々であった。ただこの世の知恵と神の知恵とはことなる。パウロはコリント第一書1章では「ギリシア人は知恵を探」(22)すが、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと」(21)され、「知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれた」(28)と語る。さらに「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(25)とも語る。
 25節の「賢い者」とは人間的に賢い者、この世の文化的な知恵にたけている者という意味である。パウロは異邦人キリスト者たちをそのような人々と認めている。しかし、それが彼らの落とし穴ともなるのである。つまり、キリスト者とされてなおこの世的な知恵を誇り、うぬぼれて他者を見下す傾向が彼らの中に残り続けている可能性があったのである。
 けれどもさらに覚えられねばならなかったのは、神を見下すうぬぼれであった。この世的な知恵にたけていることは、確かにこの世にあっては力を発揮するであろう。しかし反面では、それはこの世でしか通用しないのである。この世をこえた次元にあっては無力なのである。
 神はこの世をこえたお方であり、キリスト者とはこの世をこえた神の知恵、神の永遠の真理によって生かされている者たちである。この世の知恵を誇る者は、この世の知恵のみによって満足してしまい、この神の知恵を知ろうとしないということが起こり得るのである。この高ぶりこそ、人間における最も深刻な高ぶりなのである。
 この神の知恵は、この世の目からは愚かと映る場所にこそ示された。異邦人キリスト者たちはへりくだってその事実を確かめねばならないのである。

 そこでパウロは彼らに、神の「秘められた計画」について語る。「秘められた計画」とは何か。それは選びの民イスラエルに対する神の計画であり、具体的には「全イスラエルが救われる」(26)というものである。
 「秘められた計画」とは秘義、奥義である。人の知恵の思いもよらない、まさに神秘に属する事柄である。ただし、それはいつまでも隠されたままで、ついに知ることができずに終わるというものではない。今は隠されているが、時が来たなら必ずあきらかにされるのである。
 この計画についてパウロは語る。今は確かに「一部のイスラエル人がかたくなにな」(25)っているが、それは「異邦人全体が救いに達する」(25)時まで、すなわち神の永遠の選びのうちに救いに予定されていたすべての異邦人が救われる時までのことである。
  その後、神は全イスラエルを救いたもうのである。パウロは11節で、イスラエルは倒れてしまったということなのか、イスラエルにはもはや救いの望みはないのかと問い、ただちに「決してそうではない」(11)と答えていた。この「決してそうではない」は、パウロがみずから答えているのではない。これこそ天の高みから発せられた神のみ声なのである。

(2010.1.13 祈祷会)