ローマの信徒への手紙を読む(第151回)

151 秘められた計画(2)

 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。

(ローマの信徒への手紙11章28〜29節)

 11章25節以下において、パウロはいよいよ神の「秘められた計画」−神の救いの歴史における秘義、奥義について語る。その結論は「全イスラエルが救われる」(26)というものである。今は確かに「一部のイスラエル人がかたくなにな」(25)っているが、それは「異邦人全体が救いに達する」(25)時まで、すなわち神の永遠の選びのうちに救いに予定されていたすべての異邦人が救われる時までのことである。その後、神は全イスラエルを救いたもう。
 そのくすしい計画の証明として、パウロはここでも旧約の預言者イザヤの言葉を引く。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である」(26b〜27)
 ここはイザヤ書59章20〜21節と27章9節とがおり合わされた引用とされる。「シオンから来」る「救う方」は、旧約の時代にはまだ来ておられなかった。預言者イザヤは、ここではメシアを待ち望む言葉を語ったのである。しかし新約の使徒であるパウロ、および新約の教会には、このお方がだれであられるのかがはっきりと見えている。このお方を仰ぐことをゆるされている。すなわち、イザヤの預言はその言葉のとおりに成就し、実現したのである。
 このお方とはもちろんイエス・キリストである。罪なきキリストが十字架の上でご自身の命を捨てられたのは、異邦人たちのためだけではなかった。選びの民イスラエルの「不信心を遠ざけ」(26)「罪を取り除く」(27)ためでもあったのである。確かにねたみによってキリストを十字架につけたのはユダヤ人たちである。しかしキリストは彼らをも贖い、彼らをも新しい契約に招き入れるために死なれたのである。

 「福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです」
 確かに今イスラエルは神に敵対している。すなわち律法を自力で守り通すことが救いであるとして十字架において啓示された神の恵みを拒み、アブラハム、イサク、ヤコブもそこに立っていた信仰義認の真理にも背を向けている。その行きつくところが、神の啓示者として来たりたもうたイエス・キリストを葬り去ったことである。彼らは真理の神を殺したのである。その罪は覆い隠すすべもない。
 しかしどれほどイスラエルが不真実であったとしても、ご自身の選びの民に対する神の側の真実にはいささかも変わりはないのである。アダムの罪によって罪と死の中に落ち込んだ人類を救うために、もろもろの民の中からひとつの民を選び、彼らとの間に恵みの契約を結ばれたのは神ご自身である。この救いの計画は、まことに神の憐れみによるものであった。
 それ以後、旧約の長い歴史の中で、神はこの契約に誠実を貫きとおされた。イスラエルはしばしば神に背き、神の愛と憐れみに裏切りをもって応じたが、それでも神はご自身の誠実を覆そうとはなさらなかった。「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする」(イザヤ43:25)
 神がこの民を救おうとされた。神がこの民との間に、救いの恵みをさし示す契約を立てたもうた。それゆえに、この契約は貫かれ、成就される。契約のもう一方の当事者、すなわちイスラエルの背信や裏切りにもかかわらず、この約束は実現される。なぜなら神は真実な方だからである。義なる方だからである。この神の義と真実によって、背信のイスラエルも救われるのである。
 背きの民をもみ子の血潮によって贖い、終わりの日には全イスラエルに救いをもたらす。この神の(今は隠されているが、やがてあらわになる)驚くべき救いの計画において、神の義はあますところなく示される。これこそ、そもそも父祖たちが土台としていた義であり、選びの民がわきまえていた義であった。罪人を無償で義とする神の義である。イエス・キリストの贖いの恵みを信じる信仰によって、功績なき者に恵みとして与えられる神の義である。                       (2010.1.20 祈祷会)