ローマの信徒への手紙を読む(第152回)

152 秘められた計画(3) 

神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められられましたが、
それは、すべての人を憐れむためだったのです。

(ローマの信徒への手紙11章32節)

 イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられた神の救いは、神の救いである(あるいは、神がもたらした奇跡のみわざ)であるゆえに、人間の論理をこえている。人間の論理では理解できないところがある。 しかし、人間は救いの事柄をも人間の(あるいは、この世の)論理ではかろうとするところがあるのではないだろうか。そこに神へのつまずきも起こってくる。パウロはいよいよ、9章から論じてきたイスラエルの問題についての最終的結論を示す。そしてそれは、人間の論理をこえる神の救いの奥義、今は隠されているが、やがてあきらかとなる救いの秘儀を語ることによってなされるのである。神がみずから選びたもうた民が神につまずき、救いに背を向けている。それは確かに人間的な論理からすれば不可解なことである。そのような民を選んだ神ご自身の義が疑われるということにもなろう。しかし、神の義はあさはかなものではない。どのようにして神の義があらわされるのかということを、神の言葉である聖書に即して理解しなければならないのである。

 32節に言われる。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められられましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」
 神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順の状態に閉じ込めたと言われる。文字どおりに受け取るなら、すべての人、すなわち全人類を罪の中に閉じ込めたのは神だということになる。それならば、罪の責任は人間にはないことになる。けれどももちろんそうではない。人間がみずから神に背き、罪を犯したのであり、その罪の責任を神に転嫁することはできない。罪の責任はあくまでも人間にある。ここは、神のくすしい救いの計画を語るには、このような表現を用いるほかなかったということであろう。
 人間の論理からすれば、義人は命を受け、罪人は滅びを刈り取るべきである。罪人をその罪にもかかわらず憐れみ、恵むなどということは納得できることではない。義人には義人への、悪しき者には悪しき者への応分の報いをなすことこそが正義である。そうでないことが起こったなら、わたしたちは正義が曲げられたと感じるであろう。
しかし、神の救いの秘儀を理解するためには、
このような図式的な正義をのりこえねばならない。
すべての人は不従順の状態に閉じ込められた(正確に言うなら、すべての人がみずからの自由意志により、みずからの責任において神に背いたことを、神は許容なさった)。しかしそれは、すべての人が神の憐れみを受けるためであった。罪の中に示される神の赦しと命の福音を知るためであった。そのためにこそ、神はみ子を世に遣わされたのである。罪なきみ子がすべての人の罪を身代りに背負って罪の支払う報酬を支払われる(すなわち、十字架の上で死なれる)ことによって、神はすべての人を無罪と見なしたもうた。また、十字架に至るまでご自身に従順であられたみ子の完全な義をすべての人に着せたもうことによって、すべての人を(罪あるままに)義とされた。このようにして、神はイエス・キリストをとおしてご自身の義をつらぬきとおされたのである。このようにして、罪人に対する神の義と憐れみとが同時に示されたのである。

 パウロはここまでは、イスラエルと異邦人という区別のもとに論じてきた。けれどもここで「すべての人」と言われている以上、もはやイスラエルと異邦人という区別はない。イスラエルも異邦人も、始祖アダムにあって生まれながらに罪の支配のもとにあり、それゆえに死の刑罰を刈り取る者であるという点では同じである。同列に並ぶのである。そして「すべての人を憐れむ」神の憐れみも、区別なしに注がれるのである。
 今は異邦人が福音を受け入れ、イスラエルは福音に背を向けている。しかしやがて異邦人同様、イスラエルも憐れみを受ける。イエス・キリストの福音は選びの民と異邦人の全体に及ぶのである。
 そして、今選びの民が不従順の中に閉じ込められていることにも意味がある。すなわち、それは彼らが人間的な論理をのりこえて、イエス・キリストによって示された神の救いの秘儀に目を開くためなのである。長く身を置いてきたかたくなさから解かれてみずからの罪をさとり、父祖たちもそこに生かされた信仰による義の真理にもう一度たちかえるためなのである。                  
 (2010.1.27 祈祷会)