ローマの信徒への手紙を読む(第153回)

153 賛歌

 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。
栄光が神に永遠にありますように。アーメン。
(ローマの信徒への手紙11章36節)

 イスラエルに対する神の「秘められた計画」を、パウロは語り尽くした。今はただ、神をほめたたえる言葉しか残されていない。
   神の富と知恵と知識の深さはあまりにも深い。それゆえ神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせる者はだれひとりとしてない。
   この神の富と知恵と知識は、具体的には選びの民イスラエルに対する神の義の貫徹のされかたにおいて示された(「神の定め」は神の義がどのようにして立てられたのか、「神の道」は神の救いがどのようにしてふるわれたのかを意味する)
  
イスラエルは神に背いて罪を犯したのだから、みずからその罪の報いを支払って滅びを刈り取るべきであった。それがわたしたちの義、人間の義である。この世が、人間が義ということを論じ合うときには、おそらくその枠を出ることはないであろう。
  
しかし神は背信のイスラエルを、それにもかかわらず義と認め、ご自身のふところに招こうと心に決められた(愛ゆえに!)。事実、全イスラエルは救いを受けるのである(異邦人の救いが実現した後に、ではあるが)。それこそ、神が永遠の計画のうちに定めておられたことであったのである。

ただ、不義なるイスラエルを義とすることは、神ご自身の義が疑われることになる(そもそもそのことこそが、イスラエル問題の根本にあったことである)。神がご自身の義をあえて曲げて、そのようになさるのかとの誤解を招くことになる。
   そうではなかった。神はご自身の義を貫きとおされた上で、罪におちたイスラエルを義とされた。イエス・キリストの十字架の犠牲によってである。神は罪なきひとり子を身代わりに死なせることによって、罪人を死から命へと移された。不義なる者にみ子の義を無償で着せられることによって、不義なる者のまま義と認められた。
  これが神の義である。ひとり子を十字架の上で死なせるほどに罪人を愛された神の義である。み子を十字架につけたのはイスラエルである。しかしそのみ子の死は、実にイスラエルの救いのためでもあった。イスラエルが義とされるためでもあった。神はご自身に背いたイスラエルを、それにもかかわらず愛された。その愛ゆえに、ひとり子を十字架につけられた。十字架のもとで、神の愛と義とはふたつながら、同時に貫かれたのである。

このような義をだれが想定することができたであろうか。このような計画をだれが思い描くことができたであろうか。まさしくこれは人間の思いを超えたことである。人間の論理を超越したことである。神の富、すなわち神の豊かなる愛と憐れみとは、人間の思いをはるかに超えて大きいのである。

この神のはからいの無限の深さは、十字架のもとにあらわされた。人々がつまずき、軽蔑し、嘲笑する十字架の恥と愚かさと卑しさのうちに啓示された。ここに福音がある。この福音によって、わたしたちも救いにあずかった。そのことを心に刻んでおりたい。

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」(36)

万物の創始者、支配者、完成者なる神の前で、人間は沈黙せざるを得ない(このことについてだれも神と協議したり、神の相談相手になったりはできない)。神の救いの計画のくすしさ、壮大さを知るとき、人はただ驚嘆し、神をほめたたえるのみである。そして、ここでわたしたち人間はあらゆるつまずきを克服することができる。神のみこころの確かさと完全さとを確信することをゆるされる。そのとき、わたしたちはただ神をほめたたえるのみである(神の全能に圧倒され、ついに神との論争に終止符をうち、悔い改めて神と和解したヨブのように)。

以上のように、9〜11章の長く困難な議論を、パウロは讃美をもって閉じる。ここには彼の万感の思いがあったはずである。なぜなら、神の愛の驚くべき深さ、大きさは彼自身にも向けられたものであったからである。イスラエルの救いというここでの結論は、彼自身の救いの事実と決して切り離すことができなかったからである。主イエスは彼のためにも死んでくださったのである。そしてわたしたちのためにも死んでくださったのである。

(2010.2.3 祈祷会)