ローマの信徒への手紙を読む(第154回)

154 おのが身を献げよ(1)

 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生け 
るいけにえとして献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべ礼拝です。
(ローマの信徒への手紙12章1節)

 すでに確かめたように、ローマの信徒への手紙は全体が二部構成になっている。第一部は1章から11章である。ここは教理編ともいうべき部分で、とくに信仰による義という聖書の福音の中心的真理について論じられていた(9〜11章の、イスラエルをめぐる論述も含めて)。
 それに対して、第二部にあたる12〜16章は、言わば生活編である。これまで語られてきた福音の教えの真理ということを踏まえた上で、キリスト者の生活について説き勧められる。
 ここで、教えと生活(原理と実践と言い換えてもよい)とは決して切り離すことができないということを確認しておきたい。人は教えられたとおりにしか生きることができない。同様に、キリスト者の生活は福音の教えの真理に根ざして形づくられていく。もちろん信仰生活、教会生活には実践がともなわねばならない。行いが伴わないなら、信仰は死んだもの(ヤコブ2:17)である。
 しかし、その行いがイエス・キリストの福音、救いの真理をわきまえないものであったなら、本当の行い、本当の生活にはならないのである。ファリサイ人であった当時のパウロは、律法を行うことに熱心であった。しかしそのおりのパウロの行いは形式的なものにとどまり、自分と他者との自由を奪い、命を損なうものであったのである。
 すなわち、真の行いに生きるためには、み言葉の真理を身を低くして学び続けねばならないのである。

 パウロによれば、キリスト者の生活とは神におのが身を献げて生きることである。「自分の体を」−ここで体とは魂と肉体とをひっくるめた、全体としての人間を言うゆえに、全人としての自分を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」て生きることである。神はひとり子を十字架につけるほどにわたしたちを愛してくださった。いさおなきわたしたちを、ただキリストの贖いを信じる信仰によって義としてくださった。ここに神のはかりがたい、大いなる愛と憐れみがある。
 この神の愛を受けた者は、この愛にかりたてられて、おのずから自分自身を神に献げて生きるようになるのである。このように神と人との交わりは、おたがいにおたがいを献げ合う、まことに深く、大きな愛の交わりなのである。
 そしてそのように、人が神に自分を献げて生きることを、パウロは「礼拝」という言葉で言い表している。「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」
 自分の身を生けるいけにえとして献げよ、などと言われると、何か特別なことをしなければならないかのような印象を受けるかもしれない。しかしこのことは、そもそも何ら特別なことではない。なぜなら神におのが身を献げて生きること−礼拝こそが人間の本分だからである。人は造り主を崇めて生きるように造られているのである。これは創造の秩序である。人生の目的は神の栄光をあらわし、神を喜ぶところにあるのである(ウェストミンスター小教理問答1)。

 アダムの罪にあって造り主のもとを背き離れ、偶像にひれ伏す者となっていたわたしたち、礼拝の喜びを失っていたわたしたち、自分を崇める倒錯の中に落ち込んでいたわたしたちを、神はイエス・キリストによって贖い、和解の恵みを与え、もう一度神の子としてくださった。そのとき、まことの礼拝の恵みも回復されたのである。救いを受けたということは、礼拝者としての姿を回復されたということである。救われた者はただちに神のみ名を呼び始めるのである。神を礼拝し始めるのである。しかも、神に喜ばれる礼拝をなし始めるのである。
   それゆえ礼拝は、英語では「サーヴィス」−奉仕という言葉で表現される。人が神に喜ばれる奉仕0.をなすのである。

けれどもここで忘れられてはならないことは、それ以前に神の、人への奉仕があったということである。イエス・キリストを十字架上に献げてくださったことにより、神がわたしたちのために奉仕してくださった。この神の、人への奉仕をとおして、人の神への奉仕−礼拝と献身が成り立つのである。神が人のためにいかによきことをしてくださったのか−そのことが第一に思い起こされるべきなのである。 (2010.2.10 祈祷会)