ローマの信徒への手紙を読む(第155回)

155 おのが身を献げよ(2)
 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。
自分の体を神に喜ばれる聖なる生け
るいけにえとして献げなさい。
これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
(ローマの信徒への手紙12章1節)

 では、神に喜ばれる、あるいは神に受け入れられる礼拝をささげるというときに、どのようなことがわきまえられるべきであろうか。あるいは神に喜ばれ、受け入れられるように自分を献げるとはどういうことであろうか。
 そのことを考えていく上でひとつの手がかりとなるのは、たとえば1節の「あなたがたのなすべき礼拝」という言葉である。
 新共同訳聖書が「なすべき」と訳している言葉は、原文では「ロゴスにかなう」という意味の言葉である。「ロゴス」とは「論理」というような意味である。
 「ロゴス」と聞くとき、ヨハネによる福音書の冒頭が思い起こされるであろう。「はじめに言葉があった」−この「言葉」が、やはり原文では「ロゴス」である。そしてここで「ロゴス」とは、子なる神キリストをさしているのである。
 ところで口語訳聖書や新改訳聖書では、ここは「あなたがたのなすべき霊的礼拝」となっている。「霊的」という言葉が入っているのである。
 なぜ新共同訳が「霊的」という言葉を表に出して訳さなかったのかはわからない。しかしはっきりしていることは、かりに新共同訳が(口語訳や新改訳のように)「霊的」という言葉を表に出して訳していたとしても、ともあれ「ロゴスにかなう」とは理にかなった、論理的な、あるいは知的なといった意味であるということである。

 この点は、わたしたちが聖書を読むときによく理解しておくべきことである。日本語の「霊」がどのような背景を持っているのか、これは興味深い問題であるが、いずれにせよ日本語で「霊」と言われるとき、そこから論理的な、知的な連想をする人はあまりないのではないだろうか。どちらかと言えば論理をこえた不可思議なもの、不可思議な霊の働き、とらえどころのないもの、神秘的なものというイメージがあるのではないだろうか。
 たとえば礼拝を、何か我を忘れた恍惚状態になることのように考える宗教は少なくない。宗教的な高揚感や、忘我の境地に入ること、何らかの霊的現象を引き起こすこと、あるいは現世利益のようなものを得ることを礼拝の目的とする宗教は数多く存在している。日本的な土壌にあっても、昔からシャーマニズムと呼ばれるものが根強くあるゆえに、そうしたかたちの宗教には、日本人もなじみを持ってきたのである。

 しかし、聖書における「霊」はちがう。たとえば聖霊はわたしたちを愛し、憐れみ、慰め、わたしたちのためにうめきつつ執り成したもうとともに、わたしたちにみ言葉を教え、わたしたちを諭し、戒め、導いてくださるお方である。そのように主イエスのみ霊は愛においても働きたまい、ときに知的にも働きたまい、そしてまことに理にかなった、事柄に即したしかたで周到に、ねんごろにわたしたちを主イエスに結びつけてくださるのである。聖書の論理は、もちろんこの世の論理と同じではない。この世の論理を超えている。しかし聖書そのものに実に美しい論理があることをわたしたちは理解するのである。
 聖書における「霊」とは、むしろ「人格」という言葉で表現したほうがよいとも言えよう。聖書に向き合うときに、わたしたちはそうしたことを踏まえておきたい。そうするときにわたしたちの礼拝−神との霊的な、人格的な愛の交わりとはどのようなものなのかということも、少しずつ理解されてくるのではないだろうか。

 聖書における礼拝の特徴は、人間が神によって満足を与えてもらうことよりも、まず人間が神に喜ばれること、神に受け入れられることを第一に考えるというところにある。神の御目から見て「ロゴス」にかなう、理にかなう、すなわちみこころにかなう礼拝をささげるべきことを、人は求められているのである。自分自身を献げるというときにも、自分勝手に献げたならよいということではない。人が自分を神に献げるしかたも、神が定めておられるのである。
 礼拝は神の救いの恵みに対する人間の感謝の応答である。どのようにして人を救うのか。人に命を与えるのか。そのことも神がお決めになった(そのことが、1章から11章のところで述べられていた)。そして神は、救いの恵みにあずかった者がどのようにしてご自身をあがめて生きるのか、そのことをもみずから定めておられるのである。理にかなった礼拝を求めたもうのである。             (2010.2.17 祈祷会)