ローマの信徒への手紙を読む(第156回)

156 心を新たにして(1)

 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、
何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
(ローマの信徒への手紙12章2節)

 12章2節で、パウロはまず、あなたがたはこの世に倣ってはならないと勧めている。この世に倣ってはならないとは、どういう意味であろうか。
 たとえばこれは、キリスト者はこの世を超越した、仙人のような生き方をしなければならないということであろうか。この世を捨て、修道院にでも入って、この世とかかわらない孤独な、孤高の生をいとなまねばならないということであろうか。
 そうではない。キリスト者は飲むにも食べるにも神の栄光をあらわす。人生のあらゆる領域で神をあがめ、神のみ言葉に従う。それが「礼拝的人生観」である。
 つまり、主の日と六日間とは決して切り離されないのである。この世もまた神の栄光の舞台である。わたしたちはこの世のただ中で、この世の人々とともに生きる中で、神の栄光のために生きる。世の光、地の塩として、神の恵みを指さして生きる。

  それは修道院に入るのとは正反対の生き方である。マルティン・ルターはかつて修道士であったが、聖書をとおして福音の真理を再発見し、宗教改革者となってから、修道院を出て結婚し、家庭を築いた。そのこともまた礼拝的人生観ということとかかわるのではないだろうか。
 キリスト者の人生は、そのような積極的な人生である。この世から逃避するのではなく、福音の光をかざしてこの世に切り込んでいく人生である。そのことを理解した上で、この世に倣ってはならないとのパウロの言葉を正しく聞き取りたいのである。

この世にしっかりと人生の足場を置きつつ、しかもこの世に倣わない。ここにキリスト者の独特の、ユニークな人生の姿勢というものが生まれてくる。パウロは別の手紙では、わたしたちの本国は天にあると語っているが、この地上に身を置きつつすでに本国は天にある、そういう旅人、寄留者のようなすがたがキリスト者のすがたである。

コリント第二書5章17節でパウロは言う。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」
   さらに、この手紙の6章3、4節でもパウロはこのようにも言っていた。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを/わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」
    2節の「この世」とは、この過ぎ去っていく世、災いや罪や死の闇に支配された、サタンがそのかしらであるような、そして人々が神の愛から離れ、自己義認と自己追求とに躍起になっている、そういう古い世界、あるいはなおも贖いを待ち望んでうめき苦しんでいる古い世という意味である。最初の人アダムにあって罪におちた世、しかもいまだイエス・キリストによる贖いにあずかっていない古き世である。

イエス・キリストに結ばれる洗礼を受けた者たち、イエス・キリストのみ霊によって新しい人として創造された者たちは、もはやその古き世に属してはいない。今やわたしたちの支配者はサタンではなく、キリストである。わたしたちはキリストのものであり、キリストを礼拝して生きる者である。自分の体を神に喜ばれる、聖なる生けるいけにえとして献げて生きる者である。
    それゆえにわたしたちは、何が神のみこころであるのか、何が神に喜ばれることであるのかもわきまえている。神を喜び、神に喜ばれる命と人生ということもわきまえている。礼拝的人生観をわきまえている。
   そしてそのように「新しく創造された者」、キリストと共に古い人を葬られ、新しい命に復活した者たちは、もはや古い世に戻っていくことはないのである。罪の世と決別したゆえに、この世に身を置きつつも「この世に倣」うことをしないのである。    
                           (2010.2.24 祈祷会