ローマの信徒への手紙を読む(第156回)

157 心を新たにして(2)

 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。
むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、
何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

(ローマの信徒への手紙12章2節)

 2節でパウロは、あなたがたはこの世に倣ってはならないと勧める。キリストに結ばれる洗礼を受け、キリストのみ霊によって新しい人として創造されたわたしたちは、もはや古き世、過ぎ去っていくべき罪の世に属してはいない。そしてもはや古い世に戻っていくこともない。罪の世と決別したゆえに、この世に倣って生きることをしない。
 とはいえ、わたしたちはそのような者として、今も古き世に身を置いて生きている。それは、今なお罪の誘惑にさらされながら生きることを余儀なくされているということである。
 さらにわたしたち自身も、今なお古い人とのたたかいの中にある。わたしたちの中に、今も罪の残滓が残り続けている。わたしたちの存在において、新しい人と古い人とのつばぜりあいが続いている。完全聖化は死の時になしとげられるゆえに、これは生涯続くわけである。水は低きにつくというが、わたしたちもまたみ言葉に聞き従うよりもこの世に倣うことへと傾きがちである。なおこの世に倣うことの誘惑からときはなたれているわけではない。そういう現実をわきまえたうえで、
あなたがたはこの世に倣ってはならないとのパウロの言葉を聞かねばならないのである。
 この世に倣わない。この世と同じ姿かたちにさせられてしまわない。この世の鋳型にはめこまれない。そのためには、どのようにすべきか。新しい人、主の霊によって生かされ続けるにはどのようにすべきか。
 パウロが2節で具体的に語っているのは、ふたつのことである。「心を新たにする」ことと「自分を変えていただく」ことである。
 目をとめるべきは、「心をあらたにする」は原文では受身のかたちであることである。自力で自分の心を新たにしなければならないというのではない。神によって心を新たにしていただくのである。「自分を変えていただく」のほうは、もちろん原文でも受身である。
 つまり、どちらも受身なのである。神によって心を新たにしていただき、神によって自分を変えていただくのである。むしろ「自分を変えていただく」のほうに比重があって、「心を新たにして」はそのことがもたらす結果であると解釈するのがよいであろう。神によって自分を造りかえていただいた結果として、わたしたちの心も一新されるのである。いずれにせよわたしたちは神の恵みによって、新しくしていただくのである。

 ここに語られているのは、人間の根本的な一新ということである。人間存在の最も奥の部分、最も深い部分が造り直されるということである。
 流行を追って生きることはたやすいかもしれない。うわべを取り繕うのもたやすいかもしれない。しかし根本的一新というのはたやすいことではない。しかし神の恵みによって、わたしたちは新しくされる。神の恵みとはそのように大きな、圧倒的な恵みなのである。

 わたしたちのひとりひとりがその恵みの力に信頼し、真剣により頼んで生きることをゆるされている事実をあらためて確かめたい。安きに流れやすい、この世に倣うことへと向かいやすいわたしたちである。何が神の御心か、何が神に喜ばれることなのかもしばしばわからなくなってしまうわたしたちである。
 しかしだからこそ、神は今もわたしたちのために生きて働き続けてくださっている。ここで主の日の礼拝に戻っていくことになるが、教会が2000年にわたって礼拝に生きてきたこと、み言葉と聖餐の恵みに生き続けてきたことの意味は、まさにそこにあるのである。礼拝において分け与えられる上よりの恵みを受け続けることによってこそ、神の民は一新され続けてきたのである。神の御心のあるところを、神に喜ばれるべきことを見失わずに歩むことを得てきたのである。この世のただ中に身を置きつつも、神の真理と救いの恵みを朽ちゆくものに紛らわされ、あいまいにされることなく保持してきたのである。
 まさしくキリスト者の人生のいとなみは礼拝から始まり、礼拝に終わる。人生の目的は神礼拝にある(ウェストミンスター小教理1問)。礼拝こそが神の民の命綱なのである。 
                  (2010.3.3 祈祷会)