ローマの信徒への手紙を読む(第158回)

158 キリストの体として(1)

 わたしに与えられた恵みについて、あなたがた一人一人に言います。
自分を過大に評価してはなりません。
むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて
慎み深く評価すべきです。

(ローマの信徒への手紙12章3節)

 3節でパウロは言う。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」
 1節の「あなたがたのなすべき礼拝」の「なすべき」とは「事柄に即した」という意味であるということを先に学んだ。礼拝は、また教会生活は事柄に即してなされなければならないということである。ここでもパウロはローマの信徒たちひとりひとりに対して、事柄に即して生きるべきことを説き勧めている。
 まず、自分を過大評価してはならないと説かれる。注解者たちは、おそらくパウロはここでコリント教会に起こっていたことを思い起こしているのではないかと指摘する。
 コリント教会で起こっていたこととは、具体的にはコリント第一書12章に記されていることである。キリストのみ霊が教会に与えてくださっているさまざまな賜物の中で、特定の賜物だけが異常に高い評価を受け、信徒たちはその賜物を持つ人々を特別視し、またこの賜物を受けていた人々も受けていない人々を低く見、結果として教会のかしらなるキリストが見失われてしまっていたのである。
 このようなことが起こったのは、最も大切なことが見失われていたためであった。それは教会のすべての賜物がまさに賜物−贈り物であるという事実である。救いは徹頭徹尾神の恵みであり、聖霊の賜物もまた恵みの贈り物である。わたしたちは持たなかった者であったのに、豊かに持つ者とされたのである。そうである以上あたかも自分で得たかのように誇るべきではなく、むしろ感謝し、へりくだって受けるべきであろう。

 ここでパウロが、自分を過大評価してはならないと、また慎み深くあれと語るのは、決して徳目としての謙遜ということを言っているのではない。道徳的なへりくだりということではない。そうではなく、造り主に対する被造物のわきまえということである。神の大いなる救いの秘儀を前にしての人間の畏れと慎みということである。
 つまりパウロが勧めているのは、自己を知ることであろう。たとえばソクラテスも汝自身を知れと言ったが、パウロが求めているのはあくまでも神の前での自己認識と自己吟味である。それは、教会のかしらであられるキリストがはっきりと見えていることの大切さである。ならうべきお方のみ姿がはっきりと見えているということこそ、おのおの賜物を用いてキリストの体をたてあげていくというときに、まず出発点にあるべき事柄である。そうでないと教会のわざもこの世的な、人間的なわざに堕してしまうことになるであろう。つまり、賜物を分け合ってキリストと教会に仕えるいとなみも、礼拝のいとなみ−み言葉と聖礼典の恵みと切り離すことはできないということである。

  パウロはさらに「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」評価せよと勧める。教会に生きるすべての人々に、聖霊の賜物は分け与えられている。だれもがキリストの教会をたてあげるわざに参与することをゆるされている。ひとりひとりが、キリストの体のかけがえのない部分である。
   おたがいの信仰の度合いはさまざまである。信仰に入って間もない人もあれば、長く教会生活を続けている人もある。強い人もあれば、弱い人もある。しかしキリストのみ霊は、ひとりひとりを最もふさわしいしかたで生かし、用いておられる。ひとりひとりはたがいにことなった存在である。しかしことなったひとりひとりがかしらなるキリストにあってひとつに結ばれている。聖霊は一致と多様性の霊であられる。教会につらなる者たちのかけがえのない個性に寄り添い、これを生かし用いながら、しかもすべての者をキリストにあってまさにひとつとなしたもう−それが聖霊のお働きである。それゆえ、わたしたちはこの世のはかりではかり合ってはならない。むしろ聖霊のはかりに従って、信仰の度合いに応じてはかり合うべきである。それが、かしらなるキリストに即するということである。
   その意味で、教会という場所はだれとも競争する必要はないし、自己実現に走る必要もない場所であると言えよう。むしろ最も弱い仲間に、教会全体の歩調を合わせて歩むべきであろう(「よきサマリア人のたとえ」を思い起こしたい)。主イエスご自身の歩みに歩調を合わせ、主イエスが先立って歩まれる命の道を歩むことこそが、教会の幸いなのである。                          (2010.3.10 祈祷会)