ローマの信徒への手紙を読む(第159回)

159 キリストの体として(2)

 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、
すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、
キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
(ローマの信徒への手紙12章4〜5節)

 ここでパウロは、教会を体になぞらえている。教会はまさしく体に似ている。それは、多様でありつつひとつであるという点で似ているのである。体は一方では多様である。多くの器官からなる。目もあり、口もあり、手も足もある。しかし、もう一方ではそれらの多くの部分によってひとつの体が成り立っている。
 教会も同じである。聖霊の賜物は多様である。目にあたる働きもあれば、手や足にあたる働きもある。そして、そのどれかひとつが欠けても教会は成り立たない。先にも見たように、ひとつの賜物が他の賜物にまさって重んじられるということがあってはならない。どの賜物も等しく重んじられねばならない。
 また、教会には強い者もあり、弱い者もある。その誰ひとりとして欠けてはならない。強い者が力をふるって弱い者を振り落としていくということがあってはならない。この点では、教会は傷ついた旅人に寄り添ったよきサマリア人のように、むしろ全体の歩調を弱い者に合わせて歩むべきである。
 この世の組織は効率を優先し、自己実現につとめるであろう。格好のよさを追求するであろう。しかしこの世の秩序や原理が教会に持ち込まれることがあってはならない。むしろ破れやほころびを呈していることが、
教会のすこやかさと自由の証しであるということもあり得るのである。

 そのように多様な各部分が、なぜひとつの体となることができるのか。それは頭があるゆえである。すなわちイエス・キリストである。このかしらなるキリストを見つめて生きるということが、教会にとってはきわめて大切である。そして教会はかしらなるキリストの姿をくっきりと映し出しているのである。
 この世の組織も一致ということを求めるであろう。一致がなければ組織は成り立たないからである。その点では教会も同様である。けれども、教会の一致はこの世的ないかなる意味の支配や強制にもよらない。キリストのみ霊の愛と自由によってのみ、体の各部分は結ばれ、ひとつにされている。さまざまな違いや個性にもかかわらず、ただキリストにある絆によってたがいに補い合い、寄り添い合い、仕え合いつつ美しい一致と調和を保っている。
 大切なのは、5節の「キリストに結ばれて」という言葉の意味である。教会につらなる者たちは洗礼によってキリストに結ばれた(6:3)。洗礼とはキリストとともに古き人を葬られ、キリストのみ霊に生きる新しい人に生まれ変わらされたことのしるしである。つまり人がキリストの体なる教会の各部分としてつながれたということは、古い人のままで接ぎ木されたということではない。教会はキリストの体であり、そのキリストの体とはこの世の体ではなく、復活されたキリストの体なのである。

 そしてわたしたちがキリストの体の部分とされるということも、古いアダムに死に、新しい霊の体に甦らされて、そして接ぎ木をされたということなのである。

 それゆえジャン・カルヴァンは、キリストの体なる教会を神秘的体、キリストの霊の秘儀に生きる共同体と呼ぶ(カルヴァンがとくに念頭に置いているのは、聖餐の礼典である。聖餐の食卓において、教会はまさにキリストの霊的体としての姿を現すのである)。カルヴァンによれば、教会がキリストの体であり、そこに生きる者たちがその部分であるとは、たんに仲間意識でつながっているということでもなければ、人間的な支配に服させられているということでもない。あるいは、和をもって尊しとなすといったしかたで教会内の人間関係が円滑に運んでいるといったことでもない。
   そうではなく、キリストがご自身の魂と体とにおいて聖徒らの魂と体とに全面的に結びついておられる、まさしくひとつとなっておられるということである。キリストはご自分の尊い体を犠牲として十字架の上にささげられ、わたしたちの罪を贖い、三日目に復活してわたしたちを死の支配からときはなってくださった。その復活の、栄光の体をわたしたちの体と結び合わせてくださることにより、わたしたちの死ぬはずの体を永遠の命に生かしてくださった。このキリストの体によるわたしたちの体の贖いにこそ福音の真髄がある。まさにこのような意味において、教会はキリストの体と呼ばれるのである。  
          (2010.3.17 祈祷会)