ローマの信徒への手紙を読む(第160回)

160 賜物(1)

 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、
奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。
施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、
慈善を行う人は快く行いなさい。
(ローマの信徒への手紙12章6〜8節)

 ローマの信徒への手紙の構成についてあらためて確かめるなら、1〜11章までの部分ではキリスト教の教理が教え示され、続く12章以下ではイエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた罪の赦しと永遠の命の恵みにこたえて生きる感謝と献身の生活、あるいはキリストの体なる教会につらなって生きる生活ということが、具体的なしかたで語り勧められている。
 12章1節以下では、そのような感謝と献身の生活が礼拝的人生観として表現されていた。つまりそれは「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(1)るいとなみであった。
 そして3節以下では、教会はキリストの体であり、教会につらなるひとりひとりはかしらなるキリストに結合された体の各部分であることが確かめられていた。そこでは、かしらなるキリストのみ霊が教会に備えておられる賜物についても思いを向けた。信者のひとりひとりに聖霊の賜物が分け与えられており、たがいの賜物がキリストにあってよく調和し、教会がキリストの命に生かされるために豊かに用いられ、そしてひとつなる体が実現していく、そういう祝福を教会は与えられているのである。
 さらに6〜8節では、聖霊の賜物について、そのひとつひとつが数え上げられていく。パウロはコリント第一書の12章4節以下でも、同じように聖霊の賜物を列挙している。その論じ方はほぼ同じと見てよいであろう(若干ことなるところはあるが)。

 第一に挙げられているのが、預言の賜物である。これはやはり教会にとって最も大切な賜物である。預言とはもちろん、未来のことをあらかじめ告げるということではない。預言の「預」とは(「予」でなく)文字通り預かるということである。つまり、神の言葉を神ご自身から預かって語ることである。 聖霊はこの預言の賜物によって、肉の目には見えない、霊の目にしか見えない神の臨在−神が今この場所で人とともにいましたもうという事実を証しする言葉を教会にお語りになる。キリストの霊はキリストの言葉によってご自身の臨在をあきらかにしたもう。つまり預言とは、み言葉の説教を言う。 預言の、すなわち説教の賜物を用いて、み霊はキリストの臨在を−復活の、生けるキリストが今ここにいましたもうということを、聖徒らに鮮やかに証ししたもう。預言の賜物があってこそ、礼拝が成り立つ。父、子、聖霊なる神を拝むということが成り立つのである。 預言の賜物が教会における第一の賜物であるという理由はまさしくそこにある。預言の賜物によって、聖徒らは生ける神と出会うことを得るのである。この賜物を受け、このわざを担う者は、したがって神の言葉を曲げず、薄めず、神の口となって、聖書に啓示されているキリストそのままを語らねばならないのである。

パウロは第二コリント書4章7節で、キリスト者とは土の器−もろくこわれやすい土の器に、キリストの命の宝を納めているような存在であると語っている。
   このパウロの言葉をそのまま預言の賜物に当てはめることもできよう。器は器に徹することで、その役割を果たす。あくまでも器に徹することで、盛り込まれた宝の輝きを忠実に映し出すのである。すなわち説教は説教者の個人的な体験談や、政治的な演説や、興味深い物語などというものであってはならない。説教においてキリストそのものが語り示されるときにこそ、礼拝の場に「まことに、神はあなたがたの内におられます」(一コリント14:25)ということが起こされるのである。預言の賜物はそのようにして担われるのである。
説教者はそのつとめを解かれる日まで、み言葉を語る者としての修練を続けていく。それはもち  ろん理由のないことではない。福音はみ言葉の説教によって伝えられていくからである。教会にとって最も大切なことは、福音が福音そのものとして語られることである。説教者がキリストの口となり、器となって、十字架の言葉を忠実に語っているなら、十字架の言葉そのものが人をとらえ、すなどるのである。十字架の言葉そのものに人を救う力があるからである。                          (2010.3.24 祈祷会)