ローマの信徒への手紙を読む(第161回)

161 賜物(2)

 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、
奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。
施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、
慈善を行う人は快く行いなさい。(ローマの信徒への手紙12章6〜8節)

 預言の賜物に続き、第二の賜物として挙げられているのが「奉仕の賜物」(7)である。奉仕という言葉は、英語では「ディアコニア」という言葉であるが、実に幅広い意味をもつ言葉である。パウロの当時の教会にはとくに教会の日常的なわざ、たとえば他教会からの訪問者を迎えるとか、新しい人々への配慮をするとか、病人や生活上の問題を持ち込む人々の世話をするといった働きがあったようである。言うまでもなく、これも教会の重要な働きである。
 「ディアコニア」のもともとの意味は「仕える」ということである。奉仕の賜物はキリストご自身がそうなさったように、しもべとなって隣人に仕える賜物である。教会は強い力で牽引され、ついて来れない者たちを置いていくというしかたで管理され、統治される場所ではない。教会の統治は(キリストがかしらであられるゆえに)この世の統治とはことなる。奉仕の賜物とは傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すことなく、兄弟たちに仕え、たがいに仕え合う賜物である。
 この奉仕もまた聖霊の賜物、すなわち霊的なわざにかかわるのであり、扱う事柄そのものは具体的、日常的であっても、これを担うためには霊的な修練を必要とする。キリスト教の救いは魂と体との双方の救いである。福音の恵みは魂の領域のみならず、体の領域にも及ぶ。そして霊の領域と体の領域とは切り離すことができない。それゆえ体のための配慮も、当然霊的なしかたでなされるのである。

 そのように考えてくるなら、奉仕、ディアコニアということはおのずから預言の賜物、すなわちみ言葉の奉仕ということとも結びついていることがわかる。ここで確かめておきたいのは、預言の賜物は厳密には説教者に与えられている賜物であるのだが、一方では説教のつとめを担う者にしか与えられていないということではない。み言葉を聞く者たちも聴いたみ言葉をわかちあい、心にたくわえる。教会につらなるすべての者が、十字架の言葉に生かされて生きる。つまり広い意味では、だれもがキリストのみ言葉を語り、伝えるわざにたずさわっているということも確かな事実なのである。
 そして、預言の賜物と奉仕の賜物とはやはり深く結び合っている。なぜなら隣人の魂を看取るとは、突き詰めるなら隣人の魂にキリストのみ言葉を届けるということだからである。人の魂と肉体の双方を癒し、すこやかにするキリストの言葉を届けることだからである。  

ルカによる福音書10章にあるマルタとマリアの記事は、教会におけるみ言葉と奉仕との関係ということを考えるさいに、重要な箇所であろう。マルタは主イエスをもてなすことに心を奪われ、主イエスの足元に座ってみ言葉を聞いていたマリアを妨げた。主イエスは「必要なことはただ一つだけである」(ルカ10:42)と仰せになり、マルタを戒められた。
 確かに「必要なことはただ一つだけである」。それは主イエスのみもとに跪き、み言葉を聞くことである。すなわち礼拝である。
 しかし、ここで主イエスは決して奉仕することそのものを否定しておられるのではないであろう。教会には奉仕の賜物、ディアコニアの賜物が、聖霊の賜物として現実に備えられているのである。
 ただし、その賜物が礼拝から切り離されてはならないのである。行動することは大切なことであるが、人は聞いたようにしか行動し得ない。聞くことが行動することを、そのしかたを決めるのである。
 主イエスがマルタを戒められたのは、彼女の「奉仕」そのものを不要だと言われたのではない。奉仕が(彼女のほしいままのものではなく)みこころにかなったものとなるように、まずみ言葉を聞くようにとうながされたのである。同様に、み言葉に静かに耳をかたむけていたマリアは、決してただ聞くだけの人ではなかったはずである。礼拝の、み言葉の恵みに押し出されて、おのずから「ディアコニア」の働きを担うことへと召し出されていったはずである。                           (2010.4.7 祈祷会)