ローマの信徒への手紙を読む(第162回)

162 賜物(3)

 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、
奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。
施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、
慈善を行う人は快く行いなさい。
(ローマの信徒への手紙を12章6〜8節)

 預言の賜物に続き、第二の賜物として挙げられているのが奉仕の賜物である。ギリシア語では「ディアコニア」である。パウロの当時の教会にはとくに教会の日常的なわざ、たとえば他教会からの訪問者を迎えるとか、新しい人々への配慮をするとか、病人や生活上の問題を持ち込む人々の世話をするといった働きがあったようである。言うまでもなく、これも教会の重要な働きである。
 そして、奉仕の賜物は第一に挙げられていた預言の賜物と深く結び合っている。なぜなら隣人の魂を看取るとは、突き詰めるなら隣人の魂にキリストのみ言葉を届けるということだからである。人の魂と肉体の双方を癒し、すこやかにするキリストの言葉を届けることだからである。
 ある神学者が、重い病の床にある人々への牧会のわざについて触れながら、そこでは病を看取る者は自分の言葉を語る必要はない、自分の知恵で慰めを与えようとする必要もない、たとえば病床に寄り添って、詩編23編のみ言葉を繰り返し読み、祈ってあげたならよいと述べている。そのように奉仕のわざもまたキリストを届けるわざであって、まず奉仕をなす者自身がみ言葉によってその霊性を養われ、またキリストから魂の世話をじゅうぶんに受けていることが必要なのである。

 「教える」というのは、注解者たちによれば先の「預言」とはまたことなり、聖書の真理やキリスト教の教理を教えるわざであるようである。パウロの当時の教会にも、すでに教理を教えるということがあったと推測されている。現代の教会でいえば、教会学校や求道者クラスで教理の基礎を教えることであろう。これもまた聖霊の賜物のひとつに数え上げられていることは興味深い。教会の神学はたんに知的ないとなみであるのではなく、
霊によって導かれるわざなのである。

 「勧め」とはみ言葉によって教会員たちを慰め、励ますいわゆる牧会の働きということになろう。先の「奉仕」とも重なり合うものである。
 「施し」とはとくに経済的な困窮の中にある教会員を保護するためになされるものである。使徒言行録2章などを見ると、初代教会の時代には教会員たちが持っているものを出し合って分け合う、原始共産制に近いありかたであったようにも思われる。そのように共同生活的な側面が強ければ、施しもたいへん大切な働きであったことであろう。現代の教会とはまたことなった意味合いを持っていたにちがいないのである。もちろん現代の教会にも、これはなされてしかるべきことである。
 「指導」とは、ここでは各家庭での集会を主宰して、その集会を指導するという意味のようである。当然これは家長のつとめであったことであろう。これも聖霊の賜物に数えられている。
「慈善」も先の「施し」と通じ合うもので、
病人や生活の破綻した者たちへの救済のわざである。

 パウロが教会に備えられた聖霊の賜物として数え上げているのは、以上のような賜物である。まさしく体の各部分と言うにふさわしく、多種多様な賜物であることがわかる。

 以上のような具体的な、かつ多種多様な賜物を、かしらなるキリストはご自身の体なる教会に備えておられるのだが、これらの賜物はもちろんばらばらに、無秩序に働くのではない。教会をひとつの体とするために働き合うのである。体はたがいに生かし合い、補い合いつつ、かしらなるキリストにあって文字通りひとつの体に結ばれるのである。
 そして、教会にあって聖霊の賜物が与えられていない者はだれひとりとしてないのである。教会につらなって間もない者も、若い者たちも、年老いた者たちも、ひとりの例外もなくひとつの体の部分であり、かけがえのない存在であり、欠けてはならない存在なのである。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(一コリント12:26)のである。

                          (2010.4.21 祈祷会)