ローマの信徒への手紙を読む(第164回)

164   兄弟愛(1)

 愛には偽りがあってはなりません。
悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
(ローマの信徒への手紙12章9〜10節)

 12章8節までのところで聖霊の賜物を用いてたがいに神と人とに仕え合うべきことが勧められた後、9節からは愛の問題について語り始められる。これは自然なことである。なぜなら、キリストが教会に備えてくださっている最も大いなる賜物は愛だからである。
 このローマの信徒への手紙12章と同様に、パウロがコリントの信徒への手紙一の12章でも、教会に与えられている聖霊の賜物についてひとつひとつ数え上げて論じていることについて先にも触れた。そして興味深いことは、そのコリント第一書でも、パウロは続く13章で愛について語り始める。つまり聖霊の賜物から愛へと議論が移るのは、ふたつの手紙に共通しているのである。聖霊の賜物は、愛を抜きにしては考えることができないのである。

 コリント第一書13章は、よく知られた「愛の賛歌」と呼ばれる個所である。その冒頭にはこのように言われる。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人人のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(1〜3)
 数々の聖霊の賜物が教会に備えられていたとしても、愛なしにそれらが用いられるなら益はないとパウロは言うのである。すべての賜物は愛の交わりを築き上げるためにこそ備えられているのである。なぜなら神は愛であられ、教会のかしらキリストも愛そのものであられ、キリストの体なる教会も愛によって生かされるのだからである。そして聖霊は、キリストと教会、そこにつらなる者たちのひとりひとりをひとつに結びつける愛の絆、愛の帯なのである。

 パウロはまず9節で言う。「愛には偽りがあってはなりません」

 キリストが教会に賜物として与えてくださる愛は、偽りのない愛である。日本にキリスト教の信仰が伝えられたときに、当然聖書を日本語に翻訳する仕事がなされたのだが、そのとき聖書の意味する愛と日本語の「愛」という言葉の持つ意味合いとに大きなへだたりがあったため、「愛」という言葉を用いるべきか相当に悩んだと伝えられる。それまで日本語の「愛」には、男女の情愛というような意味しかなかったからである。聖書の愛、ギリシア語では「アガペー」という言葉で表現される愛は情愛といったものとはことなる。それゆえ、はたしてこの言葉で聖書の愛を伝えることができるのかと心配されたのである。

  愛は感情的な好き嫌いということをも超えるものである。エフェソの信徒への手紙4章25節以下では、パウロはこう言っている。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです」さらに、コロサイの信徒への手紙3章9〜10節ではこう言われる。「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」
 偽りを捨てておのおの隣人に対して真実を語るということ、それが愛の始まりであり、愛に生きる新しい人間のしるしだというのである。たがいにうそをつかないことが、古い人を脱ぎ捨てて日々新しい人を身に着ける、キリストの姿に似せられていくキリスト者の歩みの証だというのである。嘘偽りを語らないということが、確かにパウロの当時の教会において、この世の人々に対する福音の証となったということがあったようである。その事情はキリスト教が伝えられた当時の日本においても同じであったであろう。もちろん、現代においても同じであろう。
 そのように、真の愛は真実ということと結びついている。真実と結びついているかどうかということが、真の愛をはかるはかりであるとも言い得るのである。どれほど情けが深くとも、真実と結びついていなければ、それはキリストの愛とは別のものだということにもなるのである。                              (2010.5.5 祈祷会)