ローマの信徒への手紙を読む(第165回)

165 兄弟愛(2)

 愛には偽りがあってはなりません。
悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、
尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
(ローマの信徒への手紙12章9〜10節)

 真の愛は真実ということと結びついている。真実と結びついているかどうかということが、真の愛をはかるはかりであるとも言い得るのである。どれほど情けが深くとも、真実と結びついていなければ、それはキリストの愛とは別のものだということにもなるのである。
 ジャン・カルヴァンは9節の「偽り」という言葉について、これはちょうどひとりの俳優がいくつもの役を演じ分けるように、場面や状況によって表側だけを繕って生きることだと説明している。そしてそのようなありかたは隣人を偽るのみならず、自分自身をも偽るのだと語っている。この世においてはそういう愛のかたちも愛だと誤解されて通用しているということがあるかもしれないが、聖書においてはそれは真の愛ではない。愛が真実なものであるときには、その愛は首尾一貫しているのである。
 さらに、このことが9節後半の勧めにもつながってくる。真の愛は「悪を憎み、善から離れ」(9)ない。つまり愛は善と悪とを判定する感覚を鋭くする。愛を求めることは、すなわち善を求めることなのである。 

ただ、ここでの善とはこの世における、あるいは人間的意味における道徳や倫理にかなっているということではない。信仰者にとっては、善悪の基準はつねにこの世の基準でなく、神である。神のみこころにかなっていることが善であり、かなっていないことが悪なのである。このことについては、パウロが2節で語っていたことを思い起こすことができよう。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」
 神のみこころと一致して生きる。神の意志を絶えず求める。それがわたしたちを愛してくださった神への感謝の応答である。これが神を愛するということである。そして神を愛して生きること、すなわち神のみこころに従って生きるいとなみは、イエス・キリストにあって兄弟姉妹たちが愛し合って生きる、その愛の交わりの土台となるのである。
 愛は真実と結びついているのと同時に、善とも、神の意志とも結びついている。すなわちわたしたちが兄弟を愛する愛は、たんに兄弟を受け入れるということでもなければ、兄弟に媚びるということでもない。愛は相手に巻き込まれるのでもなく、相手に支配されるのでもない。反対にキリストの愛は相手を真に立たせるのである。キリストの天来のみ言葉によって相手を真に立たせるのである。 この点では、信仰者にとっては中立的な愛というものはないであろう。愛には神のみこころにかなうということがあるのみである。神のみこころを中和して、人間的な思惑との間の中を取って調停することが愛だなどということはないわけである。キリスト者の愛の交わりの基準は、ただキリストのみ言葉、キリストのみこころにかなっているかどうかという一点である。聖霊によってきよめられた愛とは、そのような愛のことを言うのである。

  以上のことを教え示されるとき、わたしたちはイエス・キリストの救いにあずかる以前には、愛の何たるかがわかっていなかった、愛とは言い難いものを愛だと錯覚して生きていたということがよくわかるであろう。愛とはそれほどに深く、広いものであったのかと気後れする思いもきざしてくるのではないだろうか。また、自分たちがそのような愛に生き抜くことができるだろうかと気落ちしてしまうところもあるのではないだろうか。
 しかし、わたしたちもまたこのような愛に生きることができるというのが聖書の約束である。9節の「善」とは神のみこころにかなうことであった。そして「悪」とは古い世界、やがては朽ち行く罪の世界をさしていた。わたしたちはもはや古い世界と同化して生きることはできない。すでに古い人を脱ぎ、キリストにある新しい人を着ているからである。
 そして、キリストの愛がわたしたちを駆り立てている(二コリント5:14)。わたしたちはキリストの愛によって四方を取り囲まれている。そのようにキリストの愛に浸りきっているわたしたちが、キリストの愛に生き得ないはずはないのである。

                               (2010.5.12 祈祷会)