ローマの信徒への手紙を読む(第168回)

168 兄弟愛(5)

 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
(ローマの信徒への手紙12章11節)

 教会につらなる者たちが兄弟愛をもってたがいに愛し合い、仕え合うことに先立って(と言うより、そのことの土台として)、まず神を愛するということがあり、神に仕えて生きるということがある。パウロはこの点について、11節でふたつのことを語る。
 第一に「怠らず励」むということである。主に仕えることにおいて怠惰であってはならない。信仰の生活は自由と解放の生活であるが、一方ではそこにおのずから勤勉さ、熱心さということがともなってくる。
 もちろんそこでの熱心さは自分に対する熱心さ、自分自身の事柄への熱心ということではない。神に向けられる熱心である。キリスト者の奉仕は、自分の虚栄心や名誉を満足させるためのものではなく、神を喜ばせるための奉仕であり、かつ主イエスが弟子たちに僕のように仕えたもうたその愛にならう、主と主にある兄弟たちに向けられた奉仕である。
 パウロはかつてファリサイ人であった。9節に「愛には偽りがあってはな」らないと言われていた。真の愛と偽りの愛とがあるのである。真の愛とは神の愛である。偽りの愛とは自己愛、エゴイズムである。
   パウロはキリストを信じたことで真の愛を知り、ファリサイ的な愛が偽りの愛であったことを知った。愛とは自分を喜ばせることではない。神は律法を自己満足の道具として与えたもうたのではない。キリストにあって神を愛し、隣人を愛することこそが律法をまっとうする道である。
   わたしたちは主の十字架の贖いと復活の命の恵みを受けて、鎖をとかれ、真の愛の自由のもとへと再び招かれたひとりひとりである。ひとり子を賜うほどの愛をもってまず神がわたしたちを愛してくださったからこそ、この神の愛を受けたからこそ、わたしたちは真の愛を知ったのである。それゆえ、聖徒の交わりにおける隣人への奉仕をも、真の愛の自由のもとになすことができるのである。主の霊の自由のもとにたがいの重荷を担い合うことができるのである。

第二に「霊に燃えて、主に仕え」ることである。偽りの愛に「燃え」るときには、ときに人間的熱狂主義といったものに陥ることもあるであろう。しかしここでパウロは「霊に燃え」るべきことを説いている。すなわちここでの熱心さは聖霊によって心が火のように燃やされることによって生じる熱心さなのである。
  神はご自身のみ霊をたえず送り続けてくださる。わたしたちの心に、消えることのない霊の火を燃やし続けてくださる。なぜわたしたちは怠惰であってはならないのか。それは、怠惰ということがこの霊の火を消してしまうことがあるからである。神の霊を窒息させない、神の火を消してしまわない、そのためにキリスト者は怠らずに励むべきなのである。
  キャンプなどでは、今も薪を燃やして食事を作ることがある。炊飯器のスイッチを入れたなら黙っていてもご飯が炊きあがるというのではない。まず火を起こすのに苦労するし、その火を消えないように燃やし続けるのもひと苦労である。
  これに似た労苦ということが教会に生きる生活においても求められると言ってよいであろう。ただ、ここでは火はわたしたちが起こすのではない。聖霊の火は神の賜物である。これを消さないようにすることがわたしたちに求められてはいるが、そこには神の守りがあるのである。

人間的な情熱であれば、いちどきに燃えることがあってもやがて冷めるであろう。人間的熱心によるわざは、やがて疲れ果ててしまうということもあろう。しかし主にあるわざは長続きする。み霊が静かに、忍耐強く、そして継続的に働き続けてくださるからである。わたしたちの命を守り、支え続けてくださるからである。
  教会にもみ霊は住んでくださっている。そして働き続けてくださっている。それゆえ教会も地上にあって、その歴史を途絶えることなく刻み続けてくることができたのである。
 
み霊はわたしたちの外から、すなわち天にいます父とみ子から遣わされ、そしてわたしたちの内に住んでくださっている。聖霊の火は賜物、贈り物である。今わたしたちの内に働くみ霊の働きに信頼しつつ「怠らず励」むことができるのは、大いなる恵みである。

(2010.6.9 祈祷会)