ローマの信徒への手紙を読む(第169回)

169 兄弟愛(6)

 希望をもって励み、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
(ローマの信徒への手紙12章11節)

 11節を見たい。ここには希望、喜び、忍耐、祈りという四つの事柄がひとつの文の中に織り込まれている。これらはいずれもキリスト者の生活に欠かせないものである。このみ言葉は5章3節以下に語られていたみ言葉を思い起こさせるであろう。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(3〜4)
 地上の教会はたたかいの教会であり続ける。教会は雲の上の理想郷でもなければ、地上の楽園でもない。むしろつねに試練と苦難とさまざまな困難の中にある艱難共同体とも言うべき場所である。
 しかし、キリストの教会にあっては苦難は苦難のままでは終わらない。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のである。苦難を耐え忍ぶことはむしろ救いの、もしくは聖化の完成の喜びに結びついているからである。
 キリストを信じる者たちにあっては、苦難さえもキリストと結合される恵みをもたらすものとして、益となって働く。苦難があるからこそ、わたしたちはキリストから離れることがない。もしも苦難がなくなってしまったなら、わたしたちはおごり高ぶり、キリストがいまさなくとも自分たちの力で生きていけるかのように錯覚し始め、キリストのもとを離れ去るであろう。わたしたちがキリストに養われる羊であり続けることのためにも、苦難は備えられているのである。
 苦難に耐えることは、もちろんわたしたちの力では不可能である。そのことを知るゆえにわたしたちは主を呼び求め、主の助けを乞い求める。このように苦難をも用いて、主イエスはわたしたちをご自身の体としてつなぎとめていてくださるのである。

 さらにわたしたちは、苦難をとおして信仰の従順と忍耐とを学び取る。主イエスご自身も地上のご生涯にあって、苦しみをとおして父なる神への従順を学ばれた(ヘブライ5:8)。キリストの体に属する者たちも、かしらなる主イエスにならって、教会に与えられる苦難をとおして忍耐と従順を学ぶのである。
 もしもあらゆることがわたしたちの思いのままに運んでいくというのであれば、わたしたちは忍耐を学ぶことはできなかったはずである。また自分の思いではなく主のみこころがなるようにと祈り求めつつ、自分の身をうちたたいてみ言葉に従うということも知らなかったはずである。いかなる苦難の中でも忍耐し、希望をもって神を待ち望むということも知らなかったはずである。神は苦難によってわたしたちの信仰を練り清め、わたしたちをキリストにあやからせ、ついにはキリストと同じ栄光へと至らせてくださるのである。
 主イエスはわたしについてきたい者は自分を捨て、自分の十字架を背負って従えと仰せになった。自分の十字架を背負って主イエスに従う道筋には、確かに数々の試練や苦難がともなうであろう。しかしキリストに従う歩みにおいて、キリストを信じて生きる者の信仰は鮮やかに証しされる。そして日々実際に、そのように主イエスに従う一歩を踏み出していくときにこそ、キリストに従って生きることがいかに祝福に満ちた、幸いな道であるのかを味わい知ることができるのである。

 ルカ福音書23章に、キレネ人シモンのことが記されている。主イエスが十字架の道を行かれるその途上で、そこをたまたま通りかかったシモンが、衰弱され歩けなくなってしまわれた主イエスにかわって主の十字架を背負って歩いたのである。これはシモンにとってはとばっちりのような出来事であって、彼が背負わされた十字架はまさに強いられた十字架であった。そのように、拒むこともできないしかたで突如重荷や試練がふりかかってくるということが、わたしたちの日常の生活にもあるであろう。
 けれども主の十字架を背負うことにともなう試練は、試練で終わってしまうことはない。それは必ず新しい喜びの、また希望の源となる。わたしたちはそのことを信じることができる。わたしたちが主の十字架を背負うとき、それは自力で背負っているのではない。わたしたちに先立って歩んでくださるお方がある。わたしたちはおのおのの歩みをこのお方にゆだねる。自分の知恵や力に頼んで生きることを放棄し、主イエスへの信頼に生き抜く。そこにわたしたちの幸いがあるからである。

(2010.6.16祈祷会)