ローマの信徒への手紙を読む(第17回)

17      神の恵みにより(1)

 ところが今や、律法とは関係なく、
しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、
信じる者すべてに与えられる神の義です。
そこには何の差別もありません。
(ローマの信徒への手紙3章21〜22節)

 3章21〜26節はこの手紙全体の主題である神の義、
信仰による義について論じられているところであり、
この手紙の中心、心臓部とも呼ばれる箇所である。
ていねいに読んでいきたい。

 21節に言われる。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、
神の義が示されました」

 「ところが」という言葉が、
この手紙がここで重要な転換点を迎えたことを鮮やかに示している。
いよいよここで世界の歴史における、あるいは神の救いの歴史における決定的な転換の出来事について語られようとしているのである。
それはキリスト・イエスの到来によってもたらされた出来事にほかならない。

 パウロはこれまで、アダムにある全人類の罪の闇について語ってきた。
ユダヤ人と異邦人とを問わず、みなアダムにあって罪のうちにはらまれて生まれてくる。
義人なし、ひとりだになし。これが結論であった。

 そして人類の罪は、人がそもそも創造の秩序において神とともに生きるべき被造物として造られているにもかかわらず、造り主から離れて自分を神として生きようとする姿にあらわれた。
異邦人たちは偶像を刻むことによって、そしてユダヤ人たちは律法を自己神化の道具とすることによって、それぞれがこの罪を犯した。
しかし、自己を神とする道はすべての人間にとって袋小路でしかない。
それは生まれながらに不義なる者がみずから神の完全に近づいていこうとする、
矛盾に満ちた無謀な道だからである。
20節に言われていたように、律法を実行することによってはだれ一人義とされない。

 2003年に始まったイラク戦争の、開戦当時のことを思い起こす。
ふたつの国の大統領がそれぞれ演説の中で、この戦争を正義のための戦争とし、さらに聖なる戦争と位置づけた。

神の名が持ち出された。
このように国家の指導者が自分自身を正義とし、みずからのふるまいを正当化するために神の名を語るということは、昔からさまざまな国に見られたことではないだろうか。
しかしどんな国も、どのような指導者も、神ではない。
絶対の正義でもない。
正しいお方は神おひとりである。
そしていかなる国家も権力者も英雄も、神の前につねに自分を問われ、ただされねばならない。
相対化されねばならない。
もちろんこのことは国家的指導者たちだけの問題ではない。
わたしたちのみなが、自分を神とする罪の深みをこそ問われ、そしてそこから救い出されねばならないのである。

 ここでパウロが語っているような事実、
すなわち全人類が罪の中にあり、わたしたちのひとりひとりも罪の中に生まれ、
生きているという事実を、
わたしたちは自分自身の知恵によってはさとることができなかった。
聖書−神のみ言葉に教えられなければ、
わたしたちはついにこの真理をさとることはなかったであろう。

ここであらためて確かめておきたい。
神のもとでこそ、世界と人間の根本問題ははっきりと示される。
人間の救いの問題も示される。
つまり、真理は天からあきらかにされる。地上のどこからでもなく、天から真理はおりてくるのである。

イエス・キリストの救いは、天からまっすぐに地の上におりてきた、
神の恵みのみわざである。
イエス・キリストによって神はこの世界の、
また人類の歴史のただ中に来たりたもうたのである。
そして神の義はこのイエス・キリストによって、
わたしたちにもたらされたのである。
不義のゆえに滅びるべきであったわたしたちを救い、永遠の命にいたらせるために、
神の義が(贈り物として!)わたしたちに手渡されたのである。

人類は罪の中にあった。地上は罪の闇に覆われていた。
「ところが今や」(21)、キリスト・イエスの到来によって神の義が示された。
まさに暗闇から光が差し込み、黒雲の中から青空が現れた。
神の救いのみわざが、わたしたちが目で見、耳で聞き、
手でさわることのできるものとして実現した。
イエス・キリストの到来によって、
まさしく新しい天と新しい地(黙示録21:1)が到来したのである。
最初のもの、古い世界はもはや過ぎ去ったのである。

                                   (2007.1.17 祈祷会)