ローマの信徒への手紙を読む(第170回)

170 兄弟愛(7)

 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。(ローマの信徒への手紙12章13節)

 13節にはふたつのことが勧められている。ひとつは「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」よとの勧めである。パウロの当時の教会にあっては、貧しい信徒たちを助けるということも大切な働きのひとつであった(現代の教会においてもそうであろう)。
 ただ、それは富める信徒が貧しい信徒に一方的に憐れみをほどこすということではなかった。つまり上から下への行為ではなかった。そのことは「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして」という表現にあらわれている。
  ここは原文では、貧しい信徒たちの必要に、あるいは困窮にともにあずかるという意味の言葉になっている。つまり貧しい兄弟たちと、神からいただいた富をともに分け合うことがおたがいの恵みとなるのだということである。

 パウロはコリント第二書8章に言う。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(8:9)
 主イエスはわたしたちのために貧しくなられた。天の栄光を捨て、罪人らに仕えるしもべとなられた。その主イエスは弟子たちに仰せになった。空の鳥は種まくことも蓄えることもしないが、神は日々養っておられる。野の花は働くことも紡ぐこともしないが、栄華をきわめたソロモン以上に装わせてくださる。だから何を食べようか、何を飲もうかと思いわずらってはならない。ただ神の国と神の義とをひたすら求めるなら、あなたがたに必要なものはすべて添え物のようにして与えられる。
 聖徒らに必要なことは、何を食べるか何を飲むかと思いわずらって、自分の手で自分の命を支えようとすることではなく、空の鳥や野の花さえ養い守ってくださる神のみ手におのが身と生活をゆだねることである。わたしたちの命はこのお方から来て、このお方によって贖われ、生かされている。そのお方が日々の必要をも確かに備えてくださるのである。
 それゆえに、聖なる者たちの貧しさを自分の貧しさとすることは恵みとなり、益となる。富をさえも自分の手で得たものであるかのように握りしめて、富に束縛される、そのような人間の陥りがちな不信仰と不自由からときはなたれて、もう一度信仰の原点に立ち返らされることによって、神の恵みをともにわかちあうことのすばらしさを再認識することができるからである。

 もうひとつ、「旅人をもてなすよう努めなさい」と勧められる。当時は現代とはことなり、旅には大きな危険がともなった。交通手段が発達しているわけでもなく、安心して泊まれるホテルや旅館があったわけでもない。それゆえ旅人の安否を気遣い、旅人を接待することは緊急の事柄であったのである。
 そのことを別にしても、キリストにある兄弟をもてなすことは、キリスト者にとって大きな喜びである。キリストにある兄弟が訪ねて来た。そこにはキリストにあるうるわしい愛と連帯の絆が結ばれるはずである。
 そしてキリスト者が信仰を同じくする旅人をもてなすということには、やはり特別の意味があるのである。もちろん旅人の疲れをいやし、温かい食事を用意し、心地よいベッドをととのえ、安心して過ごせるように配慮するということもあるが、同時に魂をもてなすということも大切なつとめであったのである。
 キリスト者同士がそれぞれの家庭を訪れるときには、ともに聖書を読み、祈る。そして霊的な対話をかわす。おたがいの魂の世話をする。そして、ともにみ言葉の恵みをわかちあう。
 これは信仰を持たない人々を迎える場合も同じであろう。我が家では未信者の友人や知人が訪ねてきた時にも、初対面の人も含めて食卓での家庭礼拝をともにしていただくことにしている。キリスト者家庭では毎日ふつうにしていることであるが、未信者の人々はそこで読まれる聖書のみ言葉にある印象を持つようである。
 ともあれ主にあって旅人をもてなすという時には、魂と体の双方において主の豊かな祝福をともにすることをゆるされる。エマオ途上を行くふたりの旅人を、復活された主イエスご自身が豊かにもてなし、養ってくださった。主の臨在したもう交わりの祝福は、この世のものではない祝福である。  (2010.6.23 祈祷会)