ローマの信徒への手紙を読む(第171回)

171 兄弟愛(8)

 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。
祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。

(ローマの信徒への手紙12章14節)

 12章10〜13節では、パウロはキリストの教会につらなる兄弟姉妹たちの愛の交わりについて語っていた。それに対して14節からは教会の外の人々、いまだ信仰を持つに至っていない人々との交わりについて語っていると見ることができる。
 教会は(キリスト者も)この世から逃れて、山の中で生きているわけではない。この世とかかわりを持たないというのが教会のありかたであるのではない。キリスト教の歴史の中で、この世は汚れているというので、人里離れた場所に自分たちだけの共同体を築いて、そこで生活をいとなんだグループがなかったわけではない。けれどもそのようなグループは、例外なく聖書の読み方に問題があったと見てよいであろう。
 教会はこの世のただ中を生きる。主イエスは弟子たちに、あなたがたは世の光、地の塩であると仰せになった。光は闇の世を照らすからこそ光なのであり、塩は地にあるからこそその効き目をあらわすことができる。教会はこの世にしっかりと地盤を据えることによって、キリストの光を高く掲げて歩むことができるのである。この世のただ中にあって、しかもこの世とは異なる福音の秩序に生きる。それが教会のこの世でのありかたなのである。
 それゆえ、キリスト者は信仰を同じくする兄弟たちを愛するだけではない。この世の人々をも愛さねばならない。信仰を持たない人々とも、キリストの愛をもってともに愛の交わりを築いていかねばならない。そして信仰を持たない人々という時にパウロが真っ先に思い浮かべたのは、教会を迫害する人々であったのである。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(14)

 13節に「旅人をもてなすよう努めなさい」と勧められていた。実は「もてなす」という言葉は、原文では追求するという意味の言葉である。たとえば日本語の「接待」という言葉とはいくぶんニュアンスの異なる言葉である。
 つまりキリスト者は見知らぬ旅人にもつねに心を開いて、ねんごろにもてなしをするにとどまらないで、彼らを追求せよと言うのである。もちろん、彼らの魂を尋ね求めるということである。わたしたちの羊飼いは99匹の羊を野原に残してでも、いなくなった1匹の羊を尋ね求めるようにして、失われていたわたしたちの魂を尋ね求め、ご自身のふところに取り戻してくださった。そのようにしてキリストにある者たちも、信仰を持たない旅人の魂を尋ね求めて、福音を語り伝えるのである。
 さらに13節のこの言葉は(「追求する」という意味だけでなく)「追い詰める」という意味をも持っている。実は14節の「迫害する」と13節の「もてなす」は原文では同じ言葉である。おそらくパウロはそのことを踏まえたうえで、14節からの段落、新しい話題に入っていったのである。

 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈れ、呪ってはならないとパウロが語るのを聞いて、わたしたちはどう思うだろうか。それは実にむずかしいことだ、と応じるだろうか。確かにむずかしい勧告である。この世には報復の論理がまかりとおっており、報復することこそ正しい行為だとの考えが行きわたっている。キリスト教国と呼ばれる国々の間にも、そうしたことは見られるであろう。 そういう現実の中でこのみ言葉と向き合う時に、このみ言葉に従うことの困難を思って何か臆するものを覚える、気後れのようなものを感じるということはないであろうか。
 ただ、ひとつのことだけを確かめておきたい。特別な、あるいは新奇なことではない。このようなことを語ったのはパウロが初めてではないということである。かつて主イエスが弟子たちにお語りになったことを、パウロはここでそのまま語っているにすぎないのである。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43〜44)
 迫害する者のために祝福を祈る。実はこれは、このみ言葉を守り行っているかどうかで真のキリスト者かどうかがはかられるような、実に大切なみ言葉であったのである。

                           (2010.6.30 祈祷会)