ローマの信徒への手紙を読む(第172回)

172 兄弟愛(9)

 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。
祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。

(ローマの信徒への手紙12章14節)

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」(14)「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:43〜44)
 これらのみ言葉は、初代教会の時代からずっと主イエスの弟子であるかどうかをはかる上で最も大切なみ言葉であり続けたようである。いわばキリストの弟子であることを根本的にはかる試金石のようなみ言葉であったのである。それほどに重要な戒めであったのである。そして、キリストの教会がこのことをキリストの弟子たることの基準と考えたのは、やはり妥当な判断であったと言えよう。
 わたしたちもまた、自分が本当にキリスト者、キリストの弟子であるかを問うときに、いつもこれが基準となるのだということを心に刻んで生きるのである。そうすることで、わたしたちの生きかたはいつもキリストのみ前にただされるのである。

 敵を愛し、迫害する者のために祈れとのみ言葉を聞くときに、わたしたちは自分自身が生まれながらに神の敵であり、自分の義を立てるために神を締め出そうとする者であったことを決して忘れてはならない。そしてわたしたちがたがいにたがいの敵となって対峙しなければならないことの根本的理由が、わたしたち自身が神に敵対し、自分を義として生きるみじめさの中に置かれているところにあるのだということに気づくべきなのである。

敵ははじめから敵として存在しているわけではない。わたしたちのエゴイズムが敵をつくるのである。わたしたちは父祖アダムに合って、皆そのような者であった。
 しかしそのようなわたしたちを神は愛し、わたしたちがまことの愛と赦しと平和に生きる幸いな者となるようにと、み子の血潮によって贖ってくださった。わたしたちの罪の根を根元から断ち切ってくださった。
 それゆえ、わたしたちもこの主イエスの愛に生きることができる。キリストの恵みによって、そのような者とされている。わたしたちはなお、敵を愛せよとの主イエスの戒めをハードルの高いものと見なしていないだろうか。主イエスがそのような愛を持っておられることと、自分自身がそのような愛に生き得るかどうかということとは別の問題であると考えていないだろうか。
 かりにそういう思いがあるならば、わたしたちは敵を愛し、迫害する者のために祈れとのみ言葉を今一度正面から受け取り直したい。すでに主イエスの愛に生きることができる者に変えられている恵みを確かめ直し、み霊の力を真剣に祈り求めたい。そこでこそ神の力に信頼するべきことを学び取りたい。すなわち祈りに生きることを学びたい。祈る者は自分の力に頼らず、神の恵みに頼って生きる。そして神の愛に生きることのためにこそ、わたしたちは祈りを必要とするのである。
 主イエスはわたしたちのために死んでよみがえられた。この神のみわざを、わたしたちはわたしたちの側で小さなものにしてしまってはならない。この福音の力は、わたしたちの生きかたにまで及ぶのである。わたしたちが真の愛の人とされ、小さなキリストとなって生きるところにまで確かに及んでいくのである。

 この世はいまだ敵意が敵意を生み、呪いが呪いを生む罪の連鎖、憎しみの連鎖の中にある。教会とキリスト者のひとりひとりも、そのような世のただ中に生きる。おのずから敵にぶつかる。迫害に直面する。
 しかし、だからこそ教会は世の光として輝きをはなち、地の塩としての効き目をあらわす。憎しみの連鎖を断ち切り、神の国の秩序−真の愛と赦しと平和の秩序をもたらすことのため、わたしたちはこの世に召されている。神の愛の証人となることこそ、キリストのみ霊を受けたわたしたちひとりひとりの光栄あるつとめであり、わたしたちはそこでこそ責任を負うのである。
 敵を愛し、迫害する者のために祈る−このようなことを、確かにこの世は知らない。このような愛はこの世から出たものではない。天にいます神からの賜物である。だからこそこの愛をこの世に先立って受けることをゆるされた者たち−教会とキリスト者たちは、この愛を世に証しして生きるつとめを担っているのである。わたしたちのおのおのにからし種ひと粒ほどの信仰があるなら、まずわたしたちの周囲から鮮やかな愛の奇跡が生み出されていくのである。                            (2010.7.7 祈祷会)