ローマの信徒への手紙を読む(第174回)

174 平和に生きる(2)

 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
(ローマの信徒への手紙12章18節)

 平和のもといは何か。それは、神がイエス・キリストの十字架の贖いの血潮によって、わたしたちと和解してくださったことである。平和はどのようにして来たのか。イエス・キリストが、わたしたちを平和の神から引き離すサタンと十字架の上でたたかい、サタンの力をうち砕いてくださったことによってである。ご自身の肉を裂き、血を流して、わたしたちから平和を奪い、わたしたちを争いと憎しみの渦の中に落とし込み、たがいに命を奪い合うようにさせる力に勝利してくださったことによってである。このキリストのみわざこそ、わたしたちの、隣人との和解ということの大前提である。まず神との平和を保って生きることができるからこそ、人間同士もまた平和の内に生きることを得るのである。
 十字架こそ平和のいしずえである。そのことを知るなら、聖書の語る平和はこの世が語る平和よりもはるかに深い、根本的なところでもたらされる平和であることがわかるのである。
 そして平和は人間の知恵や力によってもたらされるものではなく、神の賜物であることがわかるのである。平和の神がわたしたちを新しい人、み霊の人に造り変えてくださったからこそ、わたしたちは平和を造り出す幸いな人と呼ばれるのである。

 そのことは確かなことであるが、平和を実現していくにはそのための力が必要である。その力を、わたしたちは神のみ手から受け取るのである。平和を造り出すための武器を神ご自身が備えておられる。これをわたしたちは神からいただくのである。
 平和の武器とは何か。ひとつはみ言葉である。「主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る」のである。まことの平和はみ言葉を学び、み言葉に聞き従うことによって実現する。神の知恵をいただくことによってなしとげられる。
 しかし、聞いたみ言葉を行うための力も必要である。そのために神はもうひとつの武器をも備えてくださっている。それは祈りである。
   祈ることはキリスト者の仕事である、あるいは呼吸のようなものであるとよく言われる。祈りことを止めると霊的生命が枯れていくとも言われる。そのように、祈りの生活の大切さということがよく話題となる。
  しかしここでもわたしたちは、祈りがキリスト者にとって緊急の事柄であることを確かめたい。すなわち祈りは、平和は人間の力によっては来ないということと決定的なしかたでかかわっている。すなわち、祈りとは人間が自力で生きることをやめることである。神に人生のいとなみのいっさいをゆだねることである。神の前に徹底的に低くなって、頭を下げて生きることである。救われてなお残る罪の自分を、身を打ちたたいて神に従わせるたたかいをなすことである。
  その意味で、わたしたちがあらゆる場所で憎しみと争いとをしりぞけ、まことの和解と平和に生きるためには、信仰と祈りとが不可欠である。神の前に膝をかがめることが不可欠である。そこにまことの赦しと愛と平和の道、わたしたちが文字通りみ霊に生きる人とされる道が開かれるのである。

 内村鑑三というキリスト者がある。無教会主義を唱えた人だが、ある意味ではカルヴィニズムの信仰に生きた人であり、いかなる時にも留保をつけず、単純素朴に聖書のみ言葉に従って生き抜いた点で、わたしたちも多くを学ばされる人である。第一高等中学校でのいわゆる不敬事件のおりには、日本全国で非国民のそしりを受けたが、この時に彼が心深く刻んでいたのは、あなたにはわたしのほかに神があってはならないとの戒めであった。
 この人はまた、日露戦争のおりに非戦論を唱えたことでも知られる。非戦について述べた文章の中で内村は言う−戦争の廃止は政治的なかけひきによってはなされない。人がおのれの罪とたたかい、おのれの名誉心や傲慢にうちかち、神の前にへりくだる、その内なるたたかいに勝利する時、世界中の戦争はすべて止むであろう。
 これは、ほんとうに聖書から平和を学び抜いた人の卓見であろう。わたしたちもまた今日この日から、おのおの置かれたところで、平和のためのたたかい−神に屈服しておのおのの道をゆだねる祈りのたたかいを担うのである。(2010.7.21 祈祷会)