ローマの信徒への手紙を読む(第175回)

175 平和に生きる(3)

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

(ローマの信徒への手紙12章19〜21節)

 聖書はだれにでもわかる、神の言葉はどんな人の心にも届く−そのことを証明するようなエピソードを、ある牧師が記しておられる。
 あるひとりの人の話だが、その人はその牧師の教会のある町で物乞いのような生活をしていた。身寄りもなく、学校教育を受けることもできず、いつも悲しそうな顔で通りを歩いていた。教会は町の通りに面していたのだが、ある日その人は教会にふらりと入って来て、ウイークディのだれもいない礼拝堂の椅子に腰かけて涙を流していた。牧師は見かねて声をかけ、彼の話を聞き、聖書を渡して礼拝に誘った。すると毎週礼拝に来るようになって、聖書も一所懸命読み始めた。そのうちに彼の顔つきも変わってきて、悲しい顔もしなくなった。
 しばらく経ち、その日も彼が教会で熱心に聖書を読みふけっていたので、「聖書が好きか」と声をかけると、「ああ、大好きだ」と返事が返ってきた。「聖書のどこが好きか」と尋ねると、彼はにっこり笑って「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」とのみ言葉をそらんじてみせたというのである。
 このひとりの人の魂に届いたみ言葉、12章21節のみ言葉は、これまで12章でパウロがキリスト者の生活、愛と祈りに生きるべきキリスト者のいとなみについて語り勧めてきた部分の全体を締めくくる結論とも言うべきみ言葉である。それゆえ、実に重みをもったみ言葉である。キリスト者とはどのような人間かと問われたなら、悪に負けてしまう、悪の力に支配されてしまうのではなく、善をもって悪に勝利をおさめる、そのような人間なのだと答えることができるのである。
 その意味で、上のエピソードに出てきたひとりの人は、彼がどのような人生経験を重ね合わせてこのみ言葉を読んだのかは別にしても、実に的確に聖書を読み取ったと言うことができるのである。聖書はだれにでもわかるのである。
 悪に負けることなく、善をもって悪にうち勝つ。ここにわたしたちがかち取るべき、目標とすべき人生があるのである。
 パウロはまず19節で語りかける。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」
 ここに引用されている、二重括弧に入ったみ言葉は、旧約聖書申命記32章35節であるが、このみ言葉によってパウロはすべての私的な仕返し、あらゆる復讐を禁じている。

 正義の名のもとに報復の論理がまかりとおっている世にあっては、これは理想論だ、現実にはこのようなことは実行不可能であるし、何より不合理だ、もし報復を禁じられたなら、悪しき者をのさばらせることになるとの反論がたちまち返ってきそうである。しかし聖書をこの世の常識的な判断に従ってうすめてしまうべきではない。神の言葉を人間の都合によって解釈するべきではない。この世のはかりからすれば理想論と思われるみ言葉はここだけではない。主イエスはそのように思える、もっと多くのみ言葉を語っておられる。そうすると、人間の便宜で考えるなら、わたしたちは聖書の多くのみ言葉を捨ててしまわなければならなくなるであろう。むしろ、このような水準の高い要求であるからこそ聖書は神の言葉であると言い得るのだし、神の言葉に従うからこそキリスト者は世の光、地の塩たり得るのである。

わたしたちは聖書のみ言葉に従うべきであるし、そのときに神の国の秩序はこの世の秩序とはことなるのだということを覚えているべきであろう。

 さらに言えば、聖書はたんに守り行うべき道徳ではない。神の恵みの戒めである。神はわたしたちがみ言葉に現実に従って生きることができるように、超自然的な恵みの力を供給してくださるのである。み霊の力をもってわたしたちを後押ししてくださるのである。そのことを覚えつつ、信仰の勇気をもって神の言葉に従いたい。割り増しせず、留保をつけず、単純素朴にみ言葉に聞き従って生きて行きたい。 (2010.7.28 祈祷会)