ローマの信徒への手紙を読む(第176回)

176 平和に生きる(4)

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』
と主は言われる」と書いてあります。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。
そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

(ローマの信徒への手紙12章19〜21節)

 なぜパウロは復讐を禁じるのであろうか。復讐は人間がすることではなく、神がなしたもうことだからである。19節の「神の怒りに任せなさい」は、原文では神がなされることに場所を空けておきなさいという表現である。復讐は神の行為であるゆえに、人間は神に場所を譲らなければならないのである。
 復讐心にかられるとき、そこでは必ず自分が正しい、絶対に正しいとの思いがわたしたちを支配している。しかし、人間の正しさは完全ではない。むしろきわめてあやふやな、その場その場でころころ変わってしまうような正しさでしかない。
 わたしたち人間は、神のように事柄を公平に、いささかのかたよりもなく見ることはできない。逆にしばしば自己愛、自己中心にかられて盲目となり、いたずらに復讐心に支配され、救いのない争いを引き起こし、恐るべき罪を犯すのである。自分が正しいと思っていても、それは独りよがりな、自分勝手な正しさであるというのがほぼわたしたちにとってのすべての場合である。そのようなエゴイズムが報復の連鎖、悪の連鎖を生み、はては国の進路を誤らせ、世界を争いの渦の中に巻き込んでいくことにもなるのである。

 わたしたちが知っておくべきは、わたしたち自身は自分が神の代わりとなって、神になりかわって怒り、報復しているつもりであっても、それが神の御目にも正しいと判断されるとはかぎらないということである。あるいはわたしたちが敵であると思い込んでいる相手は(わたしたちの敵であるかもしれないが)必ずしも神の敵とはかぎらないということである。
 神こそまったき義なるお方である。神の思いは人の思いを超えてはるかに高く、神の正しさは完全である。神のみこころはわたしたちの心よりも大きく、神の目はすべてをかたよりなく見る。神の審判は公平であり、確かである。
 この神が、この世のすべてを正しく審判なさる。義なる者にはふさわしく報い、不義なる者にもふさわしく報いたもう。この世にあっては、正義が曲げられているかのようなことが起こる。正しい者たちが苦しみをこうむり、悪しき者たちが生き延びるということもある。主イエスご自身がそうであられたように、主イエスを信じる者たちも迫害を受けるということもある。
 今ここでローマの信徒たちに語りかけているパウロ自身が、イエス・キリストの使徒であるという理由で何度も捕らえられ、鞭打たれ、鎖につながれた人であった。もしも人間に復讐する権利が与えられていたとすれば、真っ先に復讐することを許されたであろう人は、パウロであったのではないだろうか。

 けれどもパウロは、復讐は神のなさることである、それゆえ神に場所を空けよと語る。なぜなら彼は人間の正義の不完全さ、不確かさということを知り抜いていたからである。正義のためという名目で報復がなされるときにも、それは実は正義のためではなく、エゴイズムにかられての報復にすぎないということを深いところで見抜いていたからである。
 しかし、それだけではない。パウロがこのように言い得た最大の根拠は、神の審判を信じる信仰であった。
 神は天地の造り主であられ、この世界とすべての被造物を支配しておられる唯一の主であられる。そして神は昔も今も、世の終わりに至るまで、この世界のいっさいをみ手のうちに握り、みこころのままに統べ治めておられる。この神の摂理のみ手の、今働く働きに信頼するときに、わたしたちはいかなるときにも、すべてをゆだねて生きることができるのである。
 同時に、神は義なるお方である。神は必ずまったきさばきをなし、この世にあってご自身の義を貫きとおされる。今わたしたちの目に映っているのは不条理な現実かもしれない。しかし、だからと言ってわたしたちは失望することも、落胆することもない。なぜなら摂理の神は今このときにもこの世界の現実のただ中にみ手を伸ばしておられるからである。                         (2010.8.11 祈祷会)